光輝学院イメージ
西東京保谷学習塾光輝学院 スマホ用ヘッダー
西東京保谷学習塾光輝学院 スマホ用メイン

2019年10月31日

「御の字」「砂をかむ」

今年も文化庁から「国語に関する世論調査」が発表された。

まず、この調査にどんな意味があるのかと思う。

たいていが、「今時、使うか?」という言葉ばかりが対象になるからだ。それは、古い言葉だから使わない、という意味ではない。現代のコミュニケーションの手段としては「しゃべる」よりも「SNSなどの文章のやりとり」が増加している傾向にある。つまり「しゃべり言葉」ではなく「書き言葉」が使われる頻度が多くなっている。調査される言葉の多くがこの「しゃべり言葉」である以上、使われなくなる言葉は増え続けるだろう。

また、代用できる言葉が増えていることも要因に挙げられる。新しく出現する言葉や名称、あるいは略語は、そのほとんどがカタカナやアルファベットではなかろうか。誤解されるかもしれない日本語を使うよりも、流通しているカタカナ語を使うほが合理的だとも言える。

次に、学校教育で、「言葉」を学ぶことがあるのだろうか。意味調べの宿題は、ただ単に国語辞書を引いて、ただ単に書き写すだけ。教科書の音読はしない。小学校も中学校も、読むのはもっぱら先生だ。教科書の内容についても深く掘り下げることもない。

教えることもせずに(=日本語の大切さを気づかせることもしないで)、彼ら生徒が成人した後で、「まともな日本語をしゃべることもできない」と嘆くのは筋違いだと思う。

今後も外来語やカタカナ造語が増え続けることは創造に難くない。なぜなら、社会が外国人誘致の傾向にあるし、カタカナ言葉は何となく「カッコいい」「情報通だ」と思う人が多いからだ。

こうして日本語はますます痩せていって、どれが日本語なのか、何が正しい意味なのかが、誰もわからなくなる日が来ないことを祈る。

2019年10月 2日

小説 徳川家康

司馬遼太郎「徳川家康」を読んだ。書き上げるまでに20年、全部で26巻もある大作だ。

今後の本欄に、事あるごとに内容が引用されるだろう。

さて、久しぶりにこのブログを書く気になった(これまでも、数えきれないほど、書きたいことはあった。しかし内容が重すぎて、文章にまとめる自信がなかったのだ。)のは、2代将軍秀忠に残した遺言(の一部)を、拙著をお読みになる諸兄にぜひ伝えたかったからだ。

徳川宗家に残す遺産は、徳川家のために使ってはならない。

1.万一のおりの軍用の費として使え。

=平和を維持するための費用とせよ。

2.飢饉に備えろ。

=経済的弱者を救済するための費用。また消費するだけではなく、景気が停滞したときのために、好景気の時に貯蓄(内部留保、資産など)に努めよ。

3.天変地異と火災などの不時の災害に使え。

=為政者として、起きた災害(台風による風水害、大震災など)に対して直ちに復旧し、人心の安寧に努めよ。

いかがだろうか。この時から400年後の政治家たちに聞かせたくならないだろうか。

司馬遼太郎は、徳川家康を「徳で治める為政者」として書いている(と、私は解釈した)。そして、その「徳」という観念を、具体的な(目に見える)かたちで、私たちにわかるように書き著わしているものとして読んだ。

徳川家康、私のような凡人には及びもつかない(ということさえ僭越に思える)、みごとな帝王学を示した偉人である。

ただ読書後も、私の「尊敬する人物」ではない。なぜだろうか。