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2025年2月 7日

逆転の思考(その2)

この時期から新年度の塾を探している方も多いと思う。そこで今回取り上げる内容がこれだ。

勉強の仕方がわからないから勉強しない。
→勉強しないから、勉強の仕方がわからない。
多くの児童・生徒が口にするのが、このセリフだ。保護者のみなさんも、「勉強しようにも、どうやって勉強したらいいかがわからない」と言われれば、ついつい納得してしまう。むしろ、勉強の仕方がわからない我が子を不憫に思ったりもする。
そこで「だったら、塾に行って、勉強の仕方を教えてもらおう」ということになる。
ところが、考えてみてほしい。誰にでも当てはまる、そして簡単で、あっというまに勉強ができるようになる方法というものがあるだろうか。もしあるなら、なぜ「勉強ができる人とできない人がいる」のだろうか。
結論から言うと、「誰でも勉強ができるようになる効率的な勉強方法」など、ない。それぞれに合った勉強方法は、それぞれが見つけるしかない。そして自分に合った勉強方法は、まずは勉強を始めなければ見つからない。勉強を始めても、ああやってもダメ、こうやってもダメが繰り返される。それでも、「こうしてみればどうだろう」という試みを何度も繰り返す。そうしてついに「あぁ、こうすればいいんだ」と気づく。これがあなたの勉強方法だ。そして、この過程を「努力」と呼ぶ。
数学の例を挙げてみよう。
当塾の数学学習では、自分の「勉強の方法」を探す旅は、「書いて考える」から始まる。頭で考えて書き、書いてまた考える。決して頭だけで考えてはいけない。書きながら、ノートの上で考える。そのノートに書くことは、塾生によって大きく異なる。それは方程式の文章題だろうが、関数だろうが、図形だろうが、あるいは途中計算の筆算だろうが、何から何まで書く。正しかろうが間違っていようが、そんなことは問題ではない。書いて考えることが大事なのである。間違えたら書き直す。書いて考えれば、ミスが減るとともに、「論理的な考え方」が身につく。自分の考え方や進め方が間違っていれば、必ずそこに「論理の破綻」がある。つじつまが合わなくなる。そのことは、「鉛筆が止まる」という形であらわれるから、「あれ、おかしい」とすぐ自分で気づく。間違った時でも、消しゴムで消さない。正しい考え方と間違った考え方の両方を、後で見直すからだ。
とにかく、書いて書いて書きまくる。どの問題でもこれを行う。そうすれば、約束してもいい。必ず「自分の勉強方法」が見つかる。

2024年12月 6日

自己紹介

西東京市には「東伏見コミュニティセンター」という、音楽スタジオを備えた施設がある。12月15日に、そのスタジオを利用しているバンドたちが出演するライブがあり、私たちの参加する。
出演にあたって、バンドの自己紹介を文章で提出するよう、主催者から依頼があった。そこで、2通の文を作ってみた。

その①
私たちの自己紹介をしろと言われたが、誰か中年オヤジのことを知りたい者がいるのか?中年オヤジの自分でさえ、他の中年オヤジのことなど知りたくもない。そもそもThe Middle Ageというバンド名だが、いつまで中年のつもりだ?
ほら、グチになったじゃないか。

その②
今年もまた、このライブに参加することになった。「参加する」というより「引き出される」というほうが正確かもしれない。私たちは悪いことをしたわけではないのに。これではまるで、十字架を背負って歩くキリストのようだ。しかし、私たちは聖人ではない。むしろ、民衆裁判に引っ張り出されたソクラテスになった気分だ。ソクラテスは民衆裁判で死刑になり、そのことは弟子のプラトンが「ソクラテスの弁明」に著している。「ソクラテスの弁明」は、現代でも多くの人に読み継がれている名著だ。しかし「オヤジの弁明」を聞きたい人は、オヤジを含めて、誰もいない。

残念なのは、どちらにしても大差がないことだ。

2024年11月29日

逆転の思考(その1)

前回の本欄で、「努力して勉強するのではなく、勉強することで努力する力を身につける」という内容のことを書いた。こうして、一般に言われていることを逆にすると、むしろそのほうが腑に落ちることがある。

・本を読めば国語(または「勉強」)ができるようになる。
 →国語(または「勉強」)ができる人が本を読む。
夏目漱石や太宰治の作品がおもしろくないと感じるのは、実際には「おもしろくない」ではなく、内容を理解する能力が身についていないからだ。文章に使われている漢字や二字熟語・四字熟語などの、言葉の意味や表現がわからなければ、作品全体の内容は理解できない。
もともと、文学作品の多くは、読んでワクワクするものでもなければハラハラ・ドキドキするものではない。むしろ文章自体は堅苦しく古臭く感じるものだ。だから、文学作品にストーリーのおもしろさを期待してはいけない。大切なのは「文章」ではなく、「行間」だ。ある程度の日本語力(または「国語力」)が身についていない人が本を読んでも、書かれている言葉や表現がわからないのに、書かれていない「行間」が理解できるとは思えない。
野球やサッカーなどのスポーツを楽しもうと思ったら、十分な体力とボールを正確に扱える技術が必要になろう。絵を描いたり楽器を演奏するなどの芸術を楽しもうと思ったら、筆使い・色使いや音符の読み方を身につけなければならない。いきなりホームランを打ったり、ゴールを決めたり、ピアノが弾けるようになるわけではない。どれも、それを楽しもうと思ったら、まずはそれぞれに必要な基礎力を身につけることが大切だ。基礎力を身につける過程は地味で遠回りで苦しい。しかし、地味で遠回りで苦しい時間を耐えてきた者だけが、それを楽しむことができる。
言葉の力は、読書にだけ必要なのではない。私たちの日々のコミュニケーションは、人が話したり本に書かれている日本語を理解し、日本語で考え、日本語を話すことで成り立っている。国語や社会だけでなく、数学だろうが理科だろうが技術家庭科だろうが、頭の中では日本語で考えている。
何をするにも、まずは日本語力を身につけなければならないのだと思う。
(次回に続く)

2024年11月 8日

ホワイト案件

最近、物騒な事件が立て続けに起こっている。民家に押し入る強盗だ。しかし、今まで発生してきた強盗とはワケが違う。これまでの強盗は金品強奪目的だから、おとなしく従えばたいていの場合は命までは奪われない。「窃盗」目的でそっと侵入し、家人に見つかってしまってはじめて「強盗」に変わる。そして欲しいものを手に入れたら、さっさと逃走する。傷害罪や殺人罪などの余計な犯罪まで犯したくないからだ。ただの「強盗殺人」と「強盗」では量刑の重さが格段に違う。

しかし現在も続いている強盗事件は、
・見ず知らずの人にスマホで申し込む。
・申し込んだ仕事内容が「強盗」だと気づかない。
・その見ず知らずの誰かに指示されて行う。
・下調べをせず、侵入する家庭の状況をほとんど知らない。
・大きな音を立てることを厭わず、強引に押し入る。
・まず危害を加える。しかも、拷問状態の危害。
などだ。
まず、
・金に困って、スマホで仕事を探す。
・よし、いい仕事が見つかった。「箱を移動させるだけで日当50,000円から」「日払い可」だ。
・すぐに申し込む。
・秘匿性の高い通信手段を指示される。
・言われるままに、免許証などの身分証明書を送信する。
・身分証明書をもとに脅され、犯罪に巻き込まれてしまう。

普通に考えたら、健全な会社が秘匿性の高い通信手段など取るはずがない。ましてや、スマホで身分証明書の送信など求められない。そして、簡単な仕事で50,000円もの報酬があるわけがない。
そんなこともわからないのかと思う。
そんな事件が関東のあらゆるところで起きている。しかも、1件が複数の若者で行われている。いったい何人の若者が、これほど簡単に騙されてしまうのか。
そして、いったい何人の若者が小さなきっかけで、取り返しのつかないほど重大な結果を生む犯行に手を染めるのか。

誠実に生きろ、他人をだますな、カネに目がくらむな、努力しろ。そう教わらなかったか。そんな簡単なことさえ少しも身につけられないほど、親のしつけも学校教育も無力か。

小中学生のみんな。努力しろよ。人間として、最初の努力がおそらく学校の勉強だろうし受験だろうと思う。合格するために努力するのではありません。その逆です。努力する力を身につけるために勉強するんですよ。なぜなら、都立高校受験を含めた学校の学習は、誠実に努力していれば身につくからです。自分の努力が誠実なものか、一生懸命なものか。そのあたりを、今のうちにしっかりと考えておきましょう。

2024年10月16日

軍事力で平和が保てるか。

「アジア版NATO」だの「憲法9条改正」だの、日本はまるで軍国主義に進んでいるように思える。
軍事的な防衛力を増強することは、為政者たちは「日本の国土と人民を守るため」という。しかし、本当にミサイルや戦闘機で平和が保てるのだろうか。
不思議だと思いませんか。軍事力で平和が保てるなら、アメリカ合衆国やロシア連邦、中華人民共和国は何の憂いもなく平和に暮らしているはずです。テロの心配もない。暴動もない。陰謀もない。そんな国であるはずです。一方、軍事力を持たない(ことになっている)日本は、平和が保てていないはずです。
しかし実際は全く逆です。日本はほぼ80年にわたって、どの国とも戦争も紛争もしていません。
戦争はすなわち、外交の失敗です。すべてが話し合いで解決するとは思いませんが、話し合いで解決しないからと言って、常に一触即発の緊張状態でいいのでしょうか。
話し合いで解決しないときは、一旦は保留にして、また時を改めて話し合えばいいように思います。時をあらためるまでに、どのくらいかかるのか。それはわかりません。わかりませんが、何年でも何十年でも保留にしておけばいいではないですか。
現実に日本は、ロシアや中国や韓国と領土について争っています。しかし、これらの議論は何年も続いています。それでいいではないですか。これから先、何十年も議論していればいいと思いませんか。
ミサイルが飛び交って、病人や老人や乳幼児が危険に瀕する、あるいは死傷するくらいなら、長い長い話し合いを続けていればいいと私は思います。
これから衆議院選挙があります。私は、自衛隊の地位を変えることや憲法改正には断固として反対します。

2024年6月20日

夢を与える

「僕の優勝が、みなさんに夢を与えられて、とても嬉しいです。」
「君の活躍が、国民に希望を与えるんだ。」
気になる。なんか気になる。この「与える」が。

夢を「与える」、希望を「与える」。ものすごく高いところから、ものすごく低いところの人たちに向かって言っているような気がする。

英語の「give」を初めて学ぶとき、それは「~を与える」と訳すことが一般的だ。しかしだからと言って、
I will some water to flowers. を「私は、花に水をやります(与えます)。」と訳すことはあるだろうが、
I will give him this book. を「私は彼に、この本を与えます。」と訳すだろうか。
犬にエサを与えることはあるが、友達にお菓子を与えるだろうか。友達には「あげる」のではないか。
お誕生日には花を「与える」のではなく、「贈る」のではなかろうか。

高いところから言っているつもりも、悪気があって言っているのではないことも、十分に承知している。
またこの言葉(与える)が、必ずしも目下に対するときだけの言葉ではないことも承知している。
でもやっぱり、なんか気になる。

気になるといえば、「~しかない」も気になる。
「監督には、感謝しかありません。」
「この結果には、驚きしかありません。」
おそらく、心から感謝していることを伝えたいのだろうし、予想もできなかった結果に大いに驚いていることを伝えたいのだろうことは想像できる。
それにしても、「感謝しかない」「驚きしかない」は、どうも薄っぺらい感じがする。

「勇気を与えてくれたみなさんには、感謝しかありません。」よりも、
「いつも僕を勇気づけてくれたみなさんには、お礼の言葉もありません。心から感謝しております。」
これでは、「感謝の気持ち」が伝わらないのかなぁ。

2024年5月 7日

さて、受験勉強だ。

大型連休も終わった。
まぁ連休と言っても、光輝学院には祝日も祭日もない。塾の休日は日曜日だけだ。
そうは言っても、中学生や小学生にとっては大事な連休だったろう。それが、今年も終わった。
ということは、これからが受験生にとっての本格的な受験勉強の開始ということになろう。これから、部活の都大会が終わる夏までの期間が、中学3年生にとって最もキツい時期だ。部活も大変で受験勉強もしなければならない。体も頭も、へとへとに疲れる。学校の定期テストもある。

受験勉強とは結局、努力できる人なのかどうかが試される期間だと思う。
以前も述べたが、幼稚園・保育園から小学校・中学校と、何も考えなくても何もしなくても進学できた。しかしこれからは、そう簡単にはいかない。
成績が伸びない生徒の傾向は、こうだ。
学校に行っても、自分と比べるのはいつも「自分よりも学力が劣る生徒」だ。「あいつよりマシだ。」「あいつより成績が上だ。」と考える。定期テストも、得点は低いが、あっている問題もある。だから安心していられる。決して「自分よりもデキる生徒」とは比べない。比べたら安心していられない。勉強しなければいけなくなる。
それでも、自分は自分なりに考えている。やらなきゃいけない日がくれば、やってやる。今はヤル気が出ないだけだ。
成績が伸びる生徒は、全く正反対の考え方だ。
どんなにほめられても、「もっとデキる生徒がいる。」「ここを間違えてしまった。」と考える。だから努力を続ける。彼らは「自分よりもデキる生徒」「自分が掲げた目標」と比較する。目指すものに向けて、努力を惜しまない。
これでは、生徒間の学力差はますます広がるだけだ。

ヤル気が出るのを待っていられない。ヤル気が出る方法などないからだ。いつまでたっても、多くの受験生がヤル気を持たないまま受験を迎えることになる。
① ヤル気が出るから勉強し、
② 勉強するから成績が上がる。
③ そして、ますますヤル気が出る。
④ ①に戻る。
そんな都合のいい話は、そうそうあるものではない。
まず②から始める。そう、勉強しよう。行動しよう。
勉強するから成績が上がる。すると、ヤル気が出る。ますます勉強し、成績が上がる。
と、こうなる。

夏期講習が終われば、ほぼ受験勉強が終わる。それまでに「勉強習慣」「自分なりの勉強方法」「使うテキストや問題集」などが定まれば、あとはそれを続けるだけだ。

大型連休が終わった、今が勝負時だ。

2024年3月26日

中学1年生の勉強の進め方

当塾の本年度も始まって、もうすぐ1か月が経つ。
中学1年生の授業は英語と数学だけだ。
両科目とも、ゆっくりと進める。
数学は、「解ければ良い」というものではない。当塾の中学1年生は、必ずしも解ける必要はない。最も大切にしていることはふたつあり、ひとつは「問題を自分の言葉で説明できる」こと、言いかえれば「何を求めなければならないか」がしっかりとわかること。もうひとつは「自分が考えた過程を自分の言葉で説明できる」ことだ。これは「解き方の説明」ではない。「なぜ、そう解いたか」と言ってもいい。
このふたつをまとめると「論理的な考え方」ということになる。
小学校の算数は、誤解を承知で言うと、誰でも高得点が取れる。算数が嫌いにならないように、誰でも80点以上取れる。しかも、先生の教えた通りに解くだけでいい。ほとんど考える必要はない。むしろ、ゲームをするような、一種の「反射」のようなものである。
中学校の数学は「反射」「ひらめき」だけでは解けない。たとえ解けても、それを「学力」と言うかどうか疑問だ。
英語は、まずは「発音」だ。国語は、多くの場合、文字が丁寧であることと成績とが比例する。丁寧な字を書く生徒は、一般的に国語の成績も良好だ。しかし英語は、文字の丁寧さと学力が比例しない。何と言っても、発音だ。それは、漢字が表意文字(意味をあらわす文字)である一方、英語は表音文字(発音をあらわす文字)だからだ。読めなければ、できない。
中学校の入塾者のほぼ全員が、小学校で英語を学んだにもかかわらず、アルファベットさえまともな発音ができない。だからまず、小学校の学習を忘れさせるために、アルファベットの読み方と、身近な単語(机やペン、鉛筆、リンゴなど)の読み方をじっくりと行う。同時に「発音記号」も読めるようにする。ということは、英和辞典(学校推奨の簡単な辞書ではない、大学入試にも使えるもの)の引き方も身につけてもらう。
これら「数学の論理的思考力」と「英語の発音」がどれだけ大切かを知ってもらうために、丸1か月を使う。
急いではならない。ゆっくり、じっくり。何度も何度も繰り返し、誰かに説明できるほどになったら、次に進む。
人ひとりの進み方(学習の習得度)がずいぶん違う。当塾は決して個別指導塾ではないが、一人ひとりの進み方に合わせた授業になっている。

2024年2月29日

2023年度が終わる

本年度も、今日2/29で終わる。
ということは、明日からは2024年度の授業が始まる。
ということは、本年度の授業がすべて終わったということだ。

ためしに、中学生に訊いてみた。
「もう期末テストは終わったんだよね?でも、これから終業式まで勉強は続くんだよね?期末テストの範囲以降の内容は、もうテストされないの?」
「理科は、次の学年に引き継がれます。」
「じゃ、進級しても、理科は今の学年の教科書を使い続けるの?」
「はい、そうです。」
「ほかの教科は?」
「テストされないものもあります。それどころか、あとは自分でやっといてって言われることもあります。」
というように学校は、教科によって、当年度に終わりきらないものもある。そして、その後の対応もまちまちだ。

当塾の中学の勉強は、3年間で3学年の学習をするつもりである。従って1年生と2年生は、その学年度内に済まさなければならない学習内容を積み残している可能性がある。それでも、受験に間に合わなかったことは一度もない。
というよりも毎年、ほとんどが年度内で学習を終えている。
というよりも毎年、1月頃にはテキストを終了し、復習を行っている。

「学校教師は忙しい」と、よく言われる。授業が年度内に終わらないことも、教師の多忙が理由なのだろうか。
それとも、何でもかんでも、教師の多忙を言い訳にしているのだろうか。

明日から、また頑張ろう。

2024年1月18日

本を読めば、国語ができるようになる。か?

またまた、塾生(小学生)から質問された。
「読書をすれば国語ができるようになるって、学校の先生が言っていました。本当ですか。」
年に1度は質問されることだ。
「僕は、そうは思わないよ。」
私は、決まってそう答える。

確かに、読書を趣味にしている人(読書量が多い人)は国語を含めた教科の成績がいい傾向にあるのかもしれない。しかし、だからといって直ちに「本を読めば賢くなる(小中学生なら、勉強ができる人)」と思わない。
「本を読む人は頭が良いように思う。実際にそうかもしれない。でもそれは、本を読むから頭が良いのではなく、頭が良い人が本を読むのだと思う。」
「本を読むには、言葉や表現の知識、文脈の把握力、辞書を引く力など、さまざまな能力が必要だ。これらの力がないのに本を読もうとしても、無理だと思う。」
「夏目漱石の本はおもしろくないと言う人は、夏目漱石の本を理解する力がないのかもしれない。」

生時代に読もうとした、いや実際には読もうとしたのではなく、読んでみた。いや、読む努力をした。しかし、歯が立たなかった本が何冊かある。例えば、カントの「純粋理性批判」やプラトンの「ソクラテスの弁明」、デカルトの「方法序説」などだ。
さっぱりわからなかった。プラトンもデカルトも、読み終わっても、何を読んだのかわからなかった。純粋理性批判に至っては、最初の数行で諦めた。何度挑戦しても、読み続けられない。すがすがしいほど、さっぱりわからなかった。

だからといって、これらの本がおもしろくないはずがない。おもしろい(=知性に訴える)本だからこそ、時代を越えて読まれ続けているのだろう。
私に、それを読み取る力量がなかった(今でも、ない)だけだ。

まずは勉強しよう。小中学生にできることは、まずは教科を勉強することだ。そして疑問を探すことだ。
光は屈折するということを当たり前のことだと思わずに、なぜ光は屈折するのかと問いかけよう。
自分に問いかけ、考える。それでもわからなければ質問すればいい。
そうして最初に「知識」が身につく。身についた知識が増えれば増えるほど、その知識を材料にして考えることができる。そう「思考力」が身につく。
そうして「頭が良くなる」と思う。
そうすれば、読書は楽しくなる。そして、どの本も理解できるようになる。
私はまだ「楽しい読書」だ。
私も、勉強不足かもしれない。

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