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2020年8月28日

塾生からの質問(2020年夏)

(塾生)

どうして学校では「ツーブロック」が禁止なのですか?

(私)

知らない。学校の先生に訊いてくれ。

(塾生)

学校の先生は「ツーブロックは、いざこざに巻き込まれやすい。」って言います。

(私)

その先生に「いざこざに巻き込まれたツーブロックの生徒を連れてこい。」って言え。

そもそも、ツーブロックだから巻き込まれるいざこざって何だ?

「おい、お前。ツーブロックだな? 張り倒してやる。」とか「ツーブロックのヤツがいたぞ。ツーブロックは、この辺の中学校のボスになる印だ。みんなでやっつけよう。」とか「お前、ツーブロックだな? 恐ろしいヤツだ。あっちに行ってくれ。」とか「このクラスでツーブロックにしているヤツ。パンとジュースを買ってこい。」なんて、あるのか?

気にするな。生徒手帳の「校則」に書いていなきゃ、校則じゃないだろ。

いっそ、スリーブロックやフォーブロックなんて、新しい髪形を発明してみたらどうだ?または、ただのカリアゲだかツーブロックだかわからないような微妙な髪形もいい。

くだらん。

2020年6月15日

コロナ禍に思うこと

今度のコロナウイルス蔓延(コロナ禍)によって、政治のリーダーたちの「利己主義」が見えたように思う。

まずは国の方針について。

まず挙げられるのが、緊急事態宣言の発出(よくわからない言葉だ。ここは「発令」だろうに)時期が、安倍首相が好きな「専門家」の意見よりも大きく遅れたことだ。中国やヨーロッパなどをみれば、感染者が発生した時点で大流行を予想することは容易なことだ。ところが、この宣言は(宣言によって国民の私権が制限されるだろうと)一般には否定的にとらえられていたから、首相は大きく出し遅れた。間違いなく、内閣の支持率低下を心配したものだ。

その後はもう、何をしても(あるいは、何もしなくても)裏目に出てしまう。アベノマスク配布(未だに受け取っていない人もいる)しかり、持続化給付金に関するさまざまな騒動、そして緊急事態宣言の解除時期の早さである。

これは、東京都の小池知事も同様だ。わけのわからないカタカナ言葉で茶を濁し、役に立たない「東京アラート」の宣言と解除、ステップなんとか。

そして打つ手がなくなった今度は「自粛から自衛へ」だ。結局、自分のことは自分でなんとかしろということだ。

これらの政治判断はどれも成功しなかった理由は、「国民を守るため」ではなく「選挙に勝つため」に行ったことだからだ。根拠や目的が的外れだから、効果も的外れになるのは当たり前だ。なぜあのタイミングで宣言なのか、なぜ給付金がこんなに遅れるのか、なぜマスクに多大な経費がかかるのか、そもそもなぜマスクなのか、なぜあのタイミングで東京都の自粛要請は解除されるのか。

私たちは、なぜ税金を払っているのか。日本に住んでいるだけで(何もしなくても)、その自治体に住んでいるだけで「住民税」やら「都民税」やら徴収される。それは、国や自治体が私たちに、生きるに必要なサービスを施してくれるからではないのか。それなのに、コロナ禍は始まってたった2か月程度で、なぜこんなにも多くの家庭が困窮するのか。なぜこんなにも多くの企業や店舗が閉鎖の憂き目にあわなければならないのか。

そしてオリンピックだ。「完全な形での開催」と言うが、国民には「新しい生活様式」(これも「自粛」を言い換えただけのものだ)を強制しておいて、オリンピックはこれまでと変らない形で実施しようというのか。そうまでして実施しなければならないオリンピックとは何なのか。

私の拙い文章ではうまく表現できていないのが残念だ。愚痴ではない。ほかに取るべき方法があるにもかかわらず、政治は一体なにをしているのかとの憤りがやまない。国民一人ひとりは精一杯がんばっている。もちろん、エチケットやマナーを守らない人も少なくない。しかしそれは、どの時代もどの世界にも必ずいる。そんな少数を例に挙げて「自粛が足りない」などと言ってはならない。

選挙目的の政策を実施するなら、「国民主権」とは何なのかを、私たち国民は政治家に対して、つきつけるべきである。

2020年5月 1日

9月新年度開始案に思うこと

9月の新年度開始が検討されている。これには、多くの地方自治体の首長や教育評論家も賛成しているという。

理由は、主なもので、2つある。

1.これまでも言われてきたように、「諸外国(これ、政治家の便利な言葉)では、9月の新年度開始があたりまえだ」

2.コロナウイルス蔓延によって、生徒・児童が教育機会を失われている。これを、9月の新年度開始によって仕切り直ししよう。

  でもね、もう少し考えましょうよと言いたい。

  まず1つ目。外国がそうしているからといって、なぜ日本が同じ制度を取らなければならないのだろうか。日本が海外と学年の開始時期が違うと、留学する者に対して、さまざまな問題が生じるという。しかし、これまで留学してきた何万人という学生さんが、教育制度の一部を根本から大きく変えなければならないほど多大な不利益を被ったのだろうか。

  2つ目。今後も大きな災害の発生や感染症の大流行が起きるだろう。その度に年度の開始月を変えるのか。しかも学校や自治体によって休校期間がさまざまなため、学習進度を無視して9月にリセットするというのか。

これでは、教育の放棄だ。教師たちの腕の見せ所を奪う行為だ。あるいは、教師たちの怠慢だ。留学するときに学習進度の違いによる不都合があるなら、留学前にしっかりと調整しておけばいいではないか。予定された期間内に予定された授業内容を行えない場合が生じたら、教師の工夫と努力で、予定通りの範囲を過不足なく終らせればいいではないか。生徒に努力を説くなら、言葉だけではなく、まず自分が努力して見せてほしい。

  教育(制度)を語るとき、その根拠は教育的効果を離れてはならないし、その効果や利益は間違いなく生徒たちが得るべきだ。外国がどうの、ウイルスがどうのという、教育とは全く関係ない理由で教育制度を変えようというのは笑止である。

  私は9月の新年度開始に反対しているのではない。それ自体には、賛成でも反対でもない。反対する理由は、どうも「うさん臭さ」がプンプンするからだ。教育は純粋でなければならない。青臭くなければならない。合理性を要求してはならない。理想論でなければならない。私は、そう思う。

2020年4月16日

学校教科書が配布された。

新年度の教科書と教科書ワークが生徒に配布された。なぜ、始業式の日から、こんなに時間がかかったのだろう。まぁ、これでやっと、自宅で新しい学年の勉強ができる。

塾は3月から新年度の授業を始めているが、この休校が2か月も続くものだから、授業の進み方が著しく速くなる。学校授業が止まっているのにもかかわらず、塾の授業だけが進みすぎるのは本意ではない。学校授業の質問を(塾で)しながら塾での授業を受けることが望ましいと思っている。勉強することにおいては、学校と塾は車の両輪だ。両方のバランスを欠いていて、その状態がまともな学習状態であるとは思っていない。

塾では、この教科書ワークを休校中の家庭学習のための宿題として使用する。国語を除いた教科を、1日につき各教科1ページずつ学習してもらう。そして塾では、午前中の補習時間(あるいは授業時間)を利用して、その解説を行う。

これをお読みのみなさん、これは当塾だけではないと思われます。たいていの塾では学校教科書を進めることになるでしょう。だから、もし今どこの塾にも通っていないなら、早めに(塾を)お探しになることをお勧めします。学校授業が始まって時点で、すでに追いつけないほどの差をつけられることになりかねませんから。

2020年3月13日

なぜ、勉強するのか。

「勉強ができなくても、できることは何?」塾生に訊いてみた。

これに対する答えが、「昼寝」「ゲーム」「穴を掘る」「散歩」などなど。

「絵を描く」というのもあったが、それは才能が必要だから、却下。

「勉強ができる人が、できることは何?」

これの答えは「読書」「サラリーマン」「お店の経営」などなど。

 

次の質問。

「昼寝やゲームって、毎日、朝昼晩やって、楽しいか?」

これには「さすがに、毎日となると...。」「1日中、穴を掘るのも...。」

「今日も読書、明日も読書。さぁ、仕事がんばるぞ。ってのは、あり?」

回答は「それは、ある。」「本が好きなら、毎日でも読みたい。」

 

私「勉強ができる人でも、ゲームはする?」

塾生「少しは、する。」

私「ゲームばっかりやっている人は、勉強する?」

塾生「あんまりしないんじゃない?する人もいるだろうけど...。」

 

ということは、勉強ができる人がすることは、飽きることがない事柄が多いということではないだろうか。ます、勉強自体が飽きることがない。勉強して、わからなかったことがわかると、次に新たな疑問がわく。そしてそれがわかると、また新たな...。勉強したいことは、尽きることがない。これは読書だろうが仕事だろうが同じことだ。本も仕事も、わかると(あるいは、できると)次々と手にしたくなる。

つまり、「おもしろい」のだろう。

そう。勉強や、勉強のおかげでできることは「おもしろい」。勉強を「努力」と置き換えてもいい。努力することで身についた力は、使えば使うほど「おもしろい」。

次に、努力した人だけができることは、努力していない人にはできない。つまり、努力する人は「できることが多い」と言える。「選択肢が多い」とも言える。

 

以前、勉強(=努力)する理由として「価値観が身につく」と書いた。しかし、そんな難しいことを言うよりも、

「努力すると、おもしろいことができる」

「努力すると、できることが増える」

という、このふたつで十分だ。

2020年2月28日

全国の学校、一斉休校?

頼りにならないとは思っていたが、本当にやってくれるよ。

そう。今の政府だ。

突然の「休校を要請」だって?「要請」って言っても、要請で済むか。

強盗が「お金を出してください。もちろん、出すかどうかは、あなたの判断ですよ。」

こんなのも「要請」か? そう、「要請」じゃなく「強制」じゃないのか?

しかも「地域の実情に合わせて、柔軟に対応してください」?

それは「丸投げ」って言うんじゃないか?

「休みは政府で勝手に決めました あとはそっちで進めてください」

その結果、学校の授業数が足りなくてもOKになるだけでなく、カリキュラムがガタガタに

なるから良質な授業は望むべくもない。

塾に来ている生徒はいい。昼間に「春期講習」のような形で授業をするから。

たとえ学校授業数が足りなかろうと、いい加減な授業が行われようと、夏休みが短くなろう

と、塾が全部ひっかぶってやる。

やっぱり公立学校はアテにならない。教育の独立性はない。教育は、令和になってもまだ、

政府の下位にある。

2020年2月 7日

ポツンと一軒家に住む人たちに思うこと

村や町から離れたところの家を訪ねる、民放テレビ番組が好きだ。

これは、よくある、グルメ旅行番組ではないし、ポツンと一軒家に住むことになった深い事情や

悲しい出来事を紹介するわけでもない。ただ訪問するだけの番組だ。

いや、訪問して、「どうしてこんな辺鄙なところに寂しく住んでいるのか」というような質問をして、

そこから番組が展開される。

紹介される人たちは、みな親切だ。

山でとった大切なタンパク質である猪肉だったり、手間をかけて作った干し柿だったり、それらを

惜しげもなく番組スタッフに食べるように勧める。それだけではなく、お土産まで渡すこともある。

私がこの番組を見る理由は、視聴後に「さて、明日も頑張ろう」と思えるからである。

とっくに80歳を過ぎているのに、みなさんお元気だ。ハツラツというのではなく、穏やかに元気

なのだ。穏やかで、平和な顔をして、ご自身たちの生活に大変満足されている。

「こんな場所に住んで、寂しくないか?」という質問に、共通した答えが、

「寂しくもなんともありません。」だ。

「都会にゃ、よう住まん。」

この、関西方面でよく使われる「よう~しない」。共通語にすれば「(能力ではなく)感情的・感覚的

に~できない」「するつもりがない」というところだろうか。この言葉には、とても謙虚な姿勢を感じる

ことができる。

「みなさんはみなさんで、都会の生活を楽しんでください。私はここで十分です。」

とても幸せそうな方たちを紹介してくれるこの番組(を録画したもの)を、私は今後も見続けるだろう。

2020年1月22日

お弁当の思い出

私は、中学校までの学校での昼食は給食だった。

内容は今の給食と比べるべくもないし、出身がかなりの田舎だったためか、とても素朴な給食だった。しかし、味はといえば、とても美味しかった。

それが、高校に入学とともに「お弁当」になった。それはそれで楽しみではあったが、当時のお弁当箱はアルマイトという金属製で、ふたを開けると、ふたの裏側にご飯がくっつき放題だった。お腹が空いた状態でこれを一粒ずつ取るのが面倒で、ついついふたのご飯を残したまま食事を終えることが多かった。

ところが、いつのまにか一緒にお弁当を食べるようになったK君というクラスメートが、ふたのご飯をすべて食べ、お弁当箱の隅に残った一粒も残さなかった。

ある日、何気なく私は彼に声をかけた。

「K君、やるなぁ。いつもご飯粒を残さないで、全部食べるんだね。」

するとK君が答えた。

「うん、ウチは農家だからね。」

私は、この一言にやられた。

彼が食べるお米と私が食べるお米は、お米に変わりはないのに、それが持つ意味は全く違っていた。

私は16歳のその時から58歳の今に至るまで、用意された食事は必ず完食することにしている。食べきれないと判断したときは、私が箸をつける前に、同席する誰かに一部を食べてもらう。

「うん、ウチは農家だからね。」

「もったいない」とは、どういうことかを教えられた。

2019年12月23日

ブログの目的

ツイッターやらインスタグラムやら、不特定を相手にしてコミュニケーションをとることが大流行だ。

私もフェイスブックくらいは、やっていた。そう過去形だ。

今は何もしていない。このブログでさえ、めったに書かない。

世間一般に聞いていただきたいことはヤマほどある。しかし、その大抵がたいしておもしろくないのではないかと思うと、つい二の足を踏む。

私が書こうとすることがみなさんにおもしろいとは思えないのは、みんながおもしろいと思うことが、私には別におもしろくもなんともないからだ。

例えば「インスタ映え」なる言葉がある。私は誰かが食べたものを見たいとは思わないし、きらびやかなものを画像で見ても、「ふ~ん」としか思わない(から見ない)。

この時期、イルミネーションが美しいといっても、ただの電灯であり、人工のLEDのきらめきである。蛍が、せせらぎを背景に、ふわふわと浮かんでいるのとはワケが違う。

だからといって、私はロックが好きで、ロックバンドを組んでいるが、その話をここでは書かない。教育とは何も関係ない部分で、私自身の楽しみとして遊んでいるからだ。

このブログをご覧になるということは、やはり教育に関する私の意見や活動をお知りになりたいのだろうと思う。

では、やはり次回からも教育あるいはそれに関することを書き続けることにしよう。

ね、こんな文章を読んでも、つまんないでしょ?

2019年11月21日

塾生からの相談

1.僕は歩くとき、両手が前後ではなく、いろいろな方向にぶらぶらと動いてしまう

  のですが、なぜでしょうか?(男子)

A.「賢く見える人」はどんな人かというと、それは「賢い人」である。「だらしなく

  見える人」は実際に「だらしない人」である。「歩くとき、手がぶらぶらする人」

  は「ぶらぶらした人」なのだ。まずは、生き方を変えてください。

 

2.幽霊はいますか?(女子)

A.知らない。ただ、幽霊といえば「女」「猫」と、相場は決まっている。間違っても

 「うに」や「カメムシ」の幽霊など見ない。また「ネアンデルタール人」や「中年

 オヤジ」の幽霊の話も聞いたことがない。「恨みを持っているから」というが、中年

 オヤジは恨みを持たないと言うのか。中年オヤジは恨まないのではない。「恨み方を

 知らない」、または「恨んでも誰も関心を持ってくれない」、または「中年オヤジの

 くせに、恨みを持つな」と中年オンナに叱られるのがオチだから、何もないフリを

 しているだけなのだ。幽霊になったところで、袋叩きにあうだけだろう。

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