2025年7月 3日
いよいよ光輝学院23回目の夏期講習が始まる。
今年の中学生は、これまで以上にヤル気まんまんだ。
例えば、いつもの夏の中3授業は朝9:00から始まる。ところが今年はなんと、「先生、7:00からにしましょう。」ときた。「先生はどうせ、早起きして、ウオーキングしているんでしょ? だったら起きられるでしょ。」と畳みかけてくる。
早起きするだけではない。早く始めるということは、午前中に3時限のところを4時限にできる。すると、午後も合わせて、1日に8時間の授業ができる。それを「毎日やってほしい」だと。
イヤだ、イヤだ。早起きするとかしないとかではない。
これまでの22回の夏期講習と冬期講習では、私の授業がない時間があるということを知ると(実際に講習が始まった後でも構わずに)、「先生、この時間に授業をしましょう」などと言って勝手に授業を増やされてきた。例えば、中3授業が86時限で始まった冬期講習が、終わったときには110時限の授業になっていた。それでも、朝9:00から授業をやれとは言われなかった。しかも、夏期講習では授業時間を増やす提案は(まだ)なかった。
夏期講習の段階で、とんでもない回数の授業を受けたがる今年の生徒だ。冬期講習には何を言い出すか知れたものではない。
それでも、6月に入ったら、今まで以上に健康を保とうとする自分がいる。
頑張れ、オレ。たくさんの授業を受けたいなど、講師冥利に尽きるではないか、イヤだけど。毎日毎日その日が終わると、一言もしゃべりたくないほど疲れるなど、望むところではないか、イヤだけど。教壇の上で倒れるなら本望ではないか、イヤだけど。
それでも、7月に入ったら、一人ひとりの授業方針を考える自分がいる。
あぁ、今年も夏が来た。
2025年6月24日
覚悟
6月21日付の朝刊コラムに、「日本の首相と米大統領がそろって靖国神社に参拝すれば、日米同盟の強固さと台湾海峡でともに血を流す覚悟を内外に示すことができ、何よりの抑止力になる」とあった。
前半はともかく、後半の「台湾海峡でともに血を流す覚悟を内外に示す」には異論がある。
私たち日本人は、台湾海峡有事(すなわち、中国本土と台湾の紛争)に血を流す覚悟を、いつの間にしたのだろうか。
少なくとも私と私の周りの人たちは、誰もそんな覚悟などしていない。
私たちがしなければならない覚悟は、血を流すことではなく、決して戦争で血をながさないことだ。
国や大切な人たちを守るために死ぬ覚悟ではなく、国や大切な人たちのために生きる覚悟だ。
私は、そう思う。
2025年5月23日
学校公開に行ってきた
先日、塾生が通う中学校の学校公開に行ってきた。
塾生の様子ではなく、先生の授業を観るためだ。
中3の英語・国語・社会と中2理科、中1英語を参観した。
結論から言うと、どの授業も、とても退屈した。
例えば中2の理科だ。
詳細は省くが、元素記号が書かれたトランプのようなカードを1枚ずつめくっていき、分子を完成させるものだ。水素分子なら、Hのカードを2枚集める。水ならHのカードを2枚とOのカードを1枚集める。
それで終わり。
その日、塾の授業で訊いてみた。
「あの授業って、何の役に立つの?何を学ぶ授業なの?」
塾生が答えた。
塾生が答えた。
「何を学んだか、ですか?何でしょうね。言われてみると、わかりません。」
「君らは、何を学んでいるかわからずに、あのカードゲームをやっていたの?」
「まぁ、はい。」
「では訊くが、そもそも、原子って何だ?」
「最小の粒子です。」
「原子が最小なんだね?あれ、電子って学ばなかった?」
「あっ。」
「そうだよね。原子は、原子核と電子でできているよね。すると原子は最小の粒子ではない。じゃ、原子がくっついてできる、分子って何?」
「そう言われると、説明できません。」
「君らは、原子も分子も何だかわかっていないんだな?じゃ、また訊くけど、Hが2枚でH2の水素分子ができるんだよね?Hが3枚でH3とか、4枚でH4は作れないの?」
「はい、ダメです。」
「なぜだ?」
「・・・わかりません。」
「原子も原子核も電子も分子も、わからない。Hがどうして2つしかくっつかないのかもわからない。そんなんで、原子分子を勉強したことになるの?」
「・・・」
私に言わせてみれば、業の形を整えただけのようにしか思えない。
もっと言わせてもらえば、ただの「時間つぶし」だ。
あれが「学校教育」とは、少し泣けてくる。
2025年5月 8日
「やばい」に意味はあるか?
そう。最近の若者が頻繁に使う「やばい」「えぐい」あるいは「かわいい」などの言葉は、意味を持っているのだろうか。
どうして、そう思うのか。
一般的な20歳以下の人たちを考える。
すごくおいしいラーメンを食べたとする。その感想で、「やばい」は使わないだろうか。一方で、すごくまずいラーメンを食べた時に「やばい」は使わないだろうか。
野球で、大きく曲がるスライダーの投球を見た時、「えぐっ」と言わないか。あるいは、どこかの国の暴動で多数のケガ人の報道を見た時、「えぐっ」とは言わないだろうか。
つまり、好ましく感じた時も嫌悪感を感じた時も「やばい」「えぐい」が使われる。しかも、ひんぱんに。
いい時も悪い時も使われるのだとすると、それはもはや「感想」とは言えないのではないだろうか。
何を見ても、何を食べても、何をしても。うれしくても悲しくても、楽しくても怒りを感じても。いつでも何でもかんでも「やばい」「えぐい」では、「ただ言葉を発しました」でしかない。
似たように感じる言葉が「かわいい」や「きもい」である。
幼い子供や動物を見た時「かわいい」と感じることはわかる。「きもい=気持ち悪い」も、強い不快感を覚えた時に使うことはわかる。
ところが最近(といっても、もう10年以上も前からだが)では、必ずしも、そのような場面でだけ使われているのではないようだ。
少しでも自分の好みや感覚に合致すれば「かわいい」、少しでも自分の好みや感覚に合わなければ、とたんに「きもい」が使われる。
何かを見た時の感想は、「かわいい」か「ふつう」か「きもい」である。自分の感想を表現するときの言葉が、たった3種類である。極めて単純な分類である。
難しい言葉を使ってほしいわけではない。ただ、「あいまいな表現」「何にでもあてはまる表現」「単純な分類」ばかりでは、日本人としての感性が養われないような気がする。
その結果、誰かとコミュニケーションをとる時でも、相手が一体どう思っているのか、何が言いたいのか、どう返事をすればいいのか、そういったことを理解しえないまま会話が進むような気がする。
それを「コミュニケーション」「会話」と言えるか?
当塾では、使ってはいけない言葉がある。「やばい」「えぐい」も、もちろん使ってはならない言葉である。
2025年4月18日
1学期の過ごし方(中3編)
偉そうなタイトルだが、たいしたことはない。
そう。この時期は、たいしたことをする時期ではないといくことをわかってほしい。
たいしたことをしなくてもいい(=しなければならないことだけをすればいい)代わりに、しなければならないことは必ずしなければならない。
例えば、英語を例にとる。
「たいしたこと」は、単語を覚えること。「しなければならないこと」は、単語を覚える努力をすること。
「たいしたこと」は、文章構成がわかること。「しなければならないこと」は、主語や動詞などの構成要素を考えること。
このように、今の時期は「できなくてもいい」「わからなくてもいい」「覚えていなくてもいい」時期である。
だからといって、そのままの状態でいいわけではない。「今の自分にはできないことがわかった」「わからないことはこれだと気が付いた」「このやり方では覚えられないことがわかった」ということを自覚する時期だということだ。
そうすると、「できるよう、自分の努力のスタイルを探す」「わかるためには何をすればいいかを考える」「自分にあった覚え方を試す」という段階に入る。
口では言えるが、実際は、そんなに簡単ではない。やってもやってもできない。繰り返しても覚えられない、という苦痛の日々が続くからだ。
そして次の段階だ。この「苦痛」が、何かを習得する上で、必ず伴うことに気づく。勉強であろうが、スポーツであろうが、芸術であろうが、技術であろうが、今以上の力を身につけようとすれば、「苦痛」=「努力」しなければならない。
その努力を続けることができれば、「できなくてもいい」→「できる方法を考える」→「努力をする」→「できるようになる」という変化をたどる。
この「努力」の場面は、当塾の場合、夏休み頃だろう。夏までに、自分の「勉強スタイル」を見つけなければならない。1学期とは、そういく時期だ。たいしたことはない。
2025年3月25日
授業の終わりに
(小学生授業の終盤)さて、そろそろ時間が来ました。何か聞いておきたいことはありますか?
「はい、あります。どうして法律ってあるんですか?」
おっ、いい質問だね。
それはね、みんなが安心して暮らすためなんだよ。
「安心してって、どういうことですか?」
例えば、泥棒が許されるとするよ。AさんがBさんのを盗んだら、盗んだAさんは幸せかもしれないね。でも、盗まれたBさんは幸せじゃないよね。だから今度は、BさんがCさんから何かを盗みかもしれない。そうすると、あっちこっちに泥棒がいることになる。これは幸せなことじゃないよね。
また、何をしてもいいんだったら、殴り合いだって、あっちこっちで起きる。
そうならないように、法律をつくって、みんながすこしづつ我慢をして、そのかわり平和な社会で安心して暮らそうってことなんだ。
「なるほど。」
これが、中学3年生の「公民」の授業では、全く逆のことを言うことになる。
表向きでは、「法律は社会秩序を維持するためにある」ことになっている。でも現実はそうとは思えない。
法律は、権力者が国民を管理統制しやすいようにできているとも言える。
例えば、国民全員がマイナンバーカードを作らなければならない。それは、国民への行政サービスが迅速に提供でき、国民が煩わしい手続きから解放されるからだという。
しかし実際には、このマイナンバーカードに保健証や免許証などが一体になり、ナンバーさえわかれば、その人の健康や生活面がわかり、納税状況もわかり、法律違反状況もわかる。
要するに、このマイナンバーカードで、個人情報が何でもわかってしまう。
自分のことを役所に知られたくないとしても、こうなると、何でも知られてしまう。
だから法律などの規則は、国民のためというよりも、政治家や役所のためだとも言える。
法律を作るのは「国会」で、「国会議員」だ。国会議員は選挙で選ばれる。だから君たちは3年後、選挙権を手にしたら、誰に投票するかを、しっかりと考えなければいけないことがわかるね。
さぁ、次は...。
2025年2月 7日
逆転の思考(その2)
この時期から新年度の塾を探している方も多いと思う。そこで今回取り上げる内容がこれだ。
勉強の仕方がわからないから勉強しない。
→勉強しないから、勉強の仕方がわからない。
多くの児童・生徒が口にするのが、このセリフだ。保護者のみなさんも、「勉強しようにも、どうやって勉強したらいいかがわからない」と言われれば、ついつい納得してしまう。むしろ、勉強の仕方がわからない我が子を不憫に思ったりもする。
そこで「だったら、塾に行って、勉強の仕方を教えてもらおう」ということになる。
ところが、考えてみてほしい。誰にでも当てはまる、そして簡単で、あっというまに勉強ができるようになる方法というものがあるだろうか。もしあるなら、なぜ「勉強ができる人とできない人がいる」のだろうか。
結論から言うと、「誰でも勉強ができるようになる効率的な勉強方法」など、ない。それぞれに合った勉強方法は、それぞれが見つけるしかない。そして自分に合った勉強方法は、まずは勉強を始めなければ見つからない。勉強を始めても、ああやってもダメ、こうやってもダメが繰り返される。それでも、「こうしてみればどうだろう」という試みを何度も繰り返す。そうしてついに「あぁ、こうすればいいんだ」と気づく。これがあなたの勉強方法だ。そして、この過程を「努力」と呼ぶ。
数学の例を挙げてみよう。
当塾の数学学習では、自分の「勉強の方法」を探す旅は、「書いて考える」から始まる。頭で考えて書き、書いてまた考える。決して頭だけで考えてはいけない。書きながら、ノートの上で考える。そのノートに書くことは、塾生によって大きく異なる。それは方程式の文章題だろうが、関数だろうが、図形だろうが、あるいは途中計算の筆算だろうが、何から何まで書く。正しかろうが間違っていようが、そんなことは問題ではない。書いて考えることが大事なのである。間違えたら書き直す。書いて考えれば、ミスが減るとともに、「論理的な考え方」が身につく。自分の考え方や進め方が間違っていれば、必ずそこに「論理の破綻」がある。つじつまが合わなくなる。そのことは、「鉛筆が止まる」という形であらわれるから、「あれ、おかしい」とすぐ自分で気づく。間違った時でも、消しゴムで消さない。正しい考え方と間違った考え方の両方を、後で見直すからだ。
とにかく、書いて書いて書きまくる。どの問題でもこれを行う。そうすれば、約束してもいい。必ず「自分の勉強方法」が見つかる。
2024年12月 6日
自己紹介
西東京市には「東伏見コミュニティセンター」という、音楽スタジオを備えた施設がある。12月15日に、そのスタジオを利用しているバンドたちが出演するライブがあり、私たちの参加する。
出演にあたって、バンドの自己紹介を文章で提出するよう、主催者から依頼があった。そこで、2通の文を作ってみた。
その①
私たちの自己紹介をしろと言われたが、誰か中年オヤジのことを知りたい者がいるのか?中年オヤジの自分でさえ、他の中年オヤジのことなど知りたくもない。そもそもThe Middle Ageというバンド名だが、いつまで中年のつもりだ?
ほら、グチになったじゃないか。
その②
今年もまた、このライブに参加することになった。「参加する」というより「引き出される」というほうが正確かもしれない。私たちは悪いことをしたわけではないのに。これではまるで、十字架を背負って歩くキリストのようだ。しかし、私たちは聖人ではない。むしろ、民衆裁判に引っ張り出されたソクラテスになった気分だ。ソクラテスは民衆裁判で死刑になり、そのことは弟子のプラトンが「ソクラテスの弁明」に著している。「ソクラテスの弁明」は、現代でも多くの人に読み継がれている名著だ。しかし「オヤジの弁明」を聞きたい人は、オヤジを含めて、誰もいない。
残念なのは、どちらにしても大差がないことだ。
2024年11月29日
逆転の思考(その1)
前回の本欄で、「努力して勉強するのではなく、勉強することで努力する力を身につける」という内容のことを書いた。こうして、一般に言われていることを逆にすると、むしろそのほうが腑に落ちることがある。
・本を読めば国語(または「勉強」)ができるようになる。
→国語(または「勉強」)ができる人が本を読む。
夏目漱石や太宰治の作品がおもしろくないと感じるのは、実際には「おもしろくない」ではなく、内容を理解する能力が身についていないからだ。文章に使われている漢字や二字熟語・四字熟語などの、言葉の意味や表現がわからなければ、作品全体の内容は理解できない。
もともと、文学作品の多くは、読んでワクワクするものでもなければハラハラ・ドキドキするものではない。むしろ文章自体は堅苦しく古臭く感じるものだ。だから、文学作品にストーリーのおもしろさを期待してはいけない。大切なのは「文章」ではなく、「行間」だ。ある程度の日本語力(または「国語力」)が身についていない人が本を読んでも、書かれている言葉や表現がわからないのに、書かれていない「行間」が理解できるとは思えない。
野球やサッカーなどのスポーツを楽しもうと思ったら、十分な体力とボールを正確に扱える技術が必要になろう。絵を描いたり楽器を演奏するなどの芸術を楽しもうと思ったら、筆使い・色使いや音符の読み方を身につけなければならない。いきなりホームランを打ったり、ゴールを決めたり、ピアノが弾けるようになるわけではない。どれも、それを楽しもうと思ったら、まずはそれぞれに必要な基礎力を身につけることが大切だ。基礎力を身につける過程は地味で遠回りで苦しい。しかし、地味で遠回りで苦しい時間を耐えてきた者だけが、それを楽しむことができる。
言葉の力は、読書にだけ必要なのではない。私たちの日々のコミュニケーションは、人が話したり本に書かれている日本語を理解し、日本語で考え、日本語を話すことで成り立っている。国語や社会だけでなく、数学だろうが理科だろうが技術家庭科だろうが、頭の中では日本語で考えている。
何をするにも、まずは日本語力を身につけなければならないのだと思う。
(次回に続く)
2024年11月 8日
ホワイト案件
最近、物騒な事件が立て続けに起こっている。民家に押し入る強盗だ。しかし、今まで発生してきた強盗とはワケが違う。これまでの強盗は金品強奪目的だから、おとなしく従えばたいていの場合は命までは奪われない。「窃盗」目的でそっと侵入し、家人に見つかってしまってはじめて「強盗」に変わる。そして欲しいものを手に入れたら、さっさと逃走する。傷害罪や殺人罪などの余計な犯罪まで犯したくないからだ。ただの「強盗殺人」と「強盗」では量刑の重さが格段に違う。
しかし現在も続いている強盗事件は、
・見ず知らずの人にスマホで申し込む。
・申し込んだ仕事内容が「強盗」だと気づかない。
・その見ず知らずの誰かに指示されて行う。
・下調べをせず、侵入する家庭の状況をほとんど知らない。
・大きな音を立てることを厭わず、強引に押し入る。
・まず危害を加える。しかも、拷問状態の危害。
などだ。
まず、
・金に困って、スマホで仕事を探す。
・よし、いい仕事が見つかった。「箱を移動させるだけで日当50,000円から」「日払い可」だ。
・すぐに申し込む。
・秘匿性の高い通信手段を指示される。
・言われるままに、免許証などの身分証明書を送信する。
・身分証明書をもとに脅され、犯罪に巻き込まれてしまう。
普通に考えたら、健全な会社が秘匿性の高い通信手段など取るはずがない。ましてや、スマホで身分証明書の送信など求められない。そして、簡単な仕事で50,000円もの報酬があるわけがない。
そんなこともわからないのかと思う。
そんな事件が関東のあらゆるところで起きている。しかも、1件が複数の若者で行われている。いったい何人の若者が、これほど簡単に騙されてしまうのか。
そして、いったい何人の若者が小さなきっかけで、取り返しのつかないほど重大な結果を生む犯行に手を染めるのか。
誠実に生きろ、他人をだますな、カネに目がくらむな、努力しろ。そう教わらなかったか。そんな簡単なことさえ少しも身につけられないほど、親のしつけも学校教育も無力か。
小中学生のみんな。努力しろよ。人間として、最初の努力がおそらく学校の勉強だろうし受験だろうと思う。合格するために努力するのではありません。その逆です。努力する力を身につけるために勉強するんですよ。なぜなら、都立高校受験を含めた学校の学習は、誠実に努力していれば身につくからです。自分の努力が誠実なものか、一生懸命なものか。そのあたりを、今のうちにしっかりと考えておきましょう。