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2024年2月29日

2023年度が終わる

本年度も、今日2/29で終わる。
ということは、明日からは2024年度の授業が始まる。
ということは、本年度の授業がすべて終わったということだ。

ためしに、中学生に訊いてみた。
「もう期末テストは終わったんだよね?でも、これから終業式まで勉強は続くんだよね?期末テストの範囲以降の内容は、もうテストされないの?」
「理科は、次の学年に引き継がれます。」
「じゃ、進級しても、理科は今の学年の教科書を使い続けるの?」
「はい、そうです。」
「ほかの教科は?」
「テストされないものもあります。それどころか、あとは自分でやっといてって言われることもあります。」
というように学校は、教科によって、当年度に終わりきらないものもある。そして、その後の対応もまちまちだ。

当塾の中学の勉強は、3年間で3学年の学習をするつもりである。従って1年生と2年生は、その学年度内に済まさなければならない学習内容を積み残している可能性がある。それでも、受験に間に合わなかったことは一度もない。
というよりも毎年、ほとんどが年度内で学習を終えている。
というよりも毎年、1月頃にはテキストを終了し、復習を行っている。

「学校教師は忙しい」と、よく言われる。授業が年度内に終わらないことも、教師の多忙が理由なのだろうか。
それとも、何でもかんでも、教師の多忙を言い訳にしているのだろうか。

明日から、また頑張ろう。

2024年1月18日

本を読めば、国語ができるようになる。か?

またまた、塾生(小学生)から質問された。
「読書をすれば国語ができるようになるって、学校の先生が言っていました。本当ですか。」
年に1度は質問されることだ。
「僕は、そうは思わないよ。」
私は、決まってそう答える。

確かに、読書を趣味にしている人(読書量が多い人)は国語を含めた教科の成績がいい傾向にあるのかもしれない。しかし、だからといって直ちに「本を読めば賢くなる(小中学生なら、勉強ができる人)」と思わない。
「本を読む人は頭が良いように思う。実際にそうかもしれない。でもそれは、本を読むから頭が良いのではなく、頭が良い人が本を読むのだと思う。」
「本を読むには、言葉や表現の知識、文脈の把握力、辞書を引く力など、さまざまな能力が必要だ。これらの力がないのに本を読もうとしても、無理だと思う。」
「夏目漱石の本はおもしろくないと言う人は、夏目漱石の本を理解する力がないのかもしれない。」

生時代に読もうとした、いや実際には読もうとしたのではなく、読んでみた。いや、読む努力をした。しかし、歯が立たなかった本が何冊かある。例えば、カントの「純粋理性批判」やプラトンの「ソクラテスの弁明」、デカルトの「方法序説」などだ。
さっぱりわからなかった。プラトンもデカルトも、読み終わっても、何を読んだのかわからなかった。純粋理性批判に至っては、最初の数行で諦めた。何度挑戦しても、読み続けられない。すがすがしいほど、さっぱりわからなかった。

だからといって、これらの本がおもしろくないはずがない。おもしろい(=知性に訴える)本だからこそ、時代を越えて読まれ続けているのだろう。
私に、それを読み取る力量がなかった(今でも、ない)だけだ。

まずは勉強しよう。小中学生にできることは、まずは教科を勉強することだ。そして疑問を探すことだ。
光は屈折するということを当たり前のことだと思わずに、なぜ光は屈折するのかと問いかけよう。
自分に問いかけ、考える。それでもわからなければ質問すればいい。
そうして最初に「知識」が身につく。身についた知識が増えれば増えるほど、その知識を材料にして考えることができる。そう「思考力」が身につく。
そうして「頭が良くなる」と思う。
そうすれば、読書は楽しくなる。そして、どの本も理解できるようになる。
私はまだ「楽しい読書」だ。
私も、勉強不足かもしれない。

2024年1月 2日

新年

新しい朝が来た

希望の朝だ

喜びに胸を開き

大空仰げ

ラジオの声に

健やかな胸を

この薫る風に開けよ

それ 1 2 3!

2023年12月 4日

答えにたどり着くまで

光輝学院は、答えが「あっている」か「まちがっている」かは、大した問題ではない。
小学校から高校までの勉強とは、新しいことを学び修得することであろう。新しいことに取り組み続けるのだから、その問題を解いて、間違うことも少なくないはずだ。
大切なことは、正誤よりも、「自分は、どんな考え方をしたか」であり、間違っていた時も「なぜ、自分の回答が間違っているのか」「なぜ、その正答になるのか」である。
ところが多くの生徒は、「正しい答えは何か」ばかり追求する。正しい答えに至る考え方や正しい答えに必要な知識などには、ほとんど関心を持たない。
だから例えば数学など、
生徒「問2の答えは2です。」
講師「いいえ、違います。」
生徒「じゃ、-2です。」
となる。
この「じゃ」とは何なのか。「2」でなければ「-2」だ。この姿勢を「勉強している」というのか。答えが「2」になる考え方が間違っていたなら、その考え方のどこに誤りがあったのかを考えなければならない。さらに正答が「-2」なら、なぜその答えになるのかを考えなければならない。
自分が導き出した答えが合っていても間違っていても、どうでもいいではないか。間違うことで学ぶことがあるなら(むしろ、間違うからこそ学べることが多いのだが)、間違うことは決して悪いことではない。自分の答えが合っていたとしても、「教えられたとおりに解いたら、それが正答だった」というのでは、何も身につかない。
また、答えにたどりつくまでの道のり(思考過程)は、ひとつとは限らない。
例えば「三角形の合同」を証明する場合でも、「2辺とその間の角がそれぞれ等しい」で解いた生徒もいれば、「1辺とその両端の角がそれぞれ等しい」で解いた生徒もいるかもしれない。そしてそのどちらの解法も論理的に正しいのかもしれない。正答がひとつでも、思考過程・論理展開がひとつだとは限らないのである。
最初に発表し正答した生徒の解法と自分の解法が違っていても、直ちに自分が間違っていると判断せずに、自分の解法が正しかったのかどうかを確認しなければならない。
小中学生の学習は、黙って進めてはならない。ただ座って話を聞いているだけではなく、しゃべって、書いて、失敗を恐れず進めなければならない。
よく「わからないところがわからない」というが、それ以上しゃべることができなくなったとき、それ以上書くことができなくなったとき、そこがわからない場所だ。
わからないところがわかれば、あとは「やるだけ」だ。
そう。間違いを恐れず、しゃべって考え、書いて考え、考えてしゃべり、考えて書く。それが勉強だ。
これに尽きる。

2023年10月19日

競争心について

「最近の若者は、競争心がない」と、私が若いころ(というより、子どものころ)には、よく言われたものだ。
そして今まさに、私も同じことを思う。
思い返せば、私が子どものころ(1960年代から1970年代)は、経済が右肩上がりで、生活が目に見えて良くなっていった。例えば、白黒テレビが普及したと思ったら、すぐにそれがカラーテレビに買い替えられた。各家庭に自家用車があり、食卓の風景も洋風へと変化していった。
程度の差こそあれ、誰でも生活が改善していくことを実感できた。
特別に誰かと競争しなくても、誰かに勝たなくても、ある程度の生活の向上があった。そのことに満足しない、一部の(どの分野であれ)「優等生」が、高い目標を思っていたように思う。
親や教師は、私たちを激励した。「頑張れ、頑張れ。そしていい学校に入り、いい会社に入れ。エリートになれ」と言って、現状に満足させずに、もっといい生活を送らせることを望んだ。
普通以下の成績の私には、まったく響かなかった。それは「競争心がない」と批判されても、競争心を持つ必要性を感じなかったといったほうがいいかもしれない。
そして今。
見かけ上は、かつてと同じ「競争心がない、競争心に欠ける」児童・生徒がいる。現在は、競争心や向上心や野心がなくても、普通程度の生活を送ることができるわけではないのに。
競争心が欠けている背景は、私たちのころとは違っていると思う。前述の通り、私たちのころは、努力などせずともある程度の生活ができた。そして「終身雇用」と「年功序列型賃金」で、老いるまで安泰だと考えられた。
今は違う。不謹慎なことは承知で言うが、小学校と中学校の生活で、教師に「飼いならされた」状態のように思う。
自主性と言いながら、校則でがんじがらめな学校生活。反対意見は言えないホームルーム。板書通りにノート作りをしなければならない授業。わからないことを質問しても「自分で考えろ」と言われる。「じっくり考えて解く」ではなく、膨大な問題数を公式などの「解き方で処理していく」定期テスト。宿泊学習や修学旅行、運動会などの行事でも同様だ。すべて先生たちの指導に従わなければならない。教わった通りにしなければならない。自分の考えをさしはさんではいけない。「はい」しか言えない。
競争心や向上心など持てない生徒だらけになるのもわかる。思考が停止している状態だからだ。
教育の役割は「知識の伝達」ではない。
そうは思わない、なぜだろう、こうだったらどうなるのか、他に方法はないのか。考える内容は山ほどある。そのひとつひとつに丁寧に向き合い、教師と生徒がともに成長することこそが教育であるはずだ。そしてともに成長する教育があるからこそ、競争心や向上心が生まれるのだと思う。

2023年7月27日

今年も夏期講習

暑いぞ、今年の夏は。本当に暑い。
と不満を言っても、何も始まらない。暑いのは、誰でも同じだ。だったら、何も言わないに限る。

夏期講習だ。そう、始まったんだ。
中3生は、夏期講習が終わると同時に受験もほぼ確定する。
受験というのは、入試までの受験勉強量、成績の向上度合い、受験校の偏差値範囲などなど。

夏期講習が終わっても受験が確定しないのは、私の指示通りに生活してくれる塾生だ。
受験生には、「夏休みは、1日あたり12時間の勉強」と言っている。

ありがたいことに、毎年の受験生がこれを守ってくれる。
だから秋以降、どんどん実力が上がる。
このような塾生は、夏が終わったからといって、この先のことが予想できるわけではない。計り知れないほどの成長を見せる塾生になる可能性がある。

例えば中3生でも、中2の学習範囲である「一次関数」「平行と合同」「三角形と四角形」の分野を勉強したいという者には、中2の授業に参加する。授業料は要らない。
このような主体的な勉強ができるようになればしめたものだ。

これまでどれほど勉強をサボっていても、中3の夏期講習と補習で100時間、中2の授業で40時間、そしてそれらの復習と理科社会を自宅学習。
夏休み中の勉強時間は、ざっと400時間を超える。

さて、夜の授業の準備にかかろう。

2022年12月30日

天子蒙塵

この秋、浅田次郎氏の著書「天子蒙塵」を読んだ。
読んだ、と言っても、そこに至るまでが長かった。
なぜなら「天子蒙塵」は、「蒼穹の昴3部作」と言われる「蒼穹の昴」「中原の虹」「珍妃の井戸」に続く4作目だからだ。4作目ということは、1作目の「蒼穹の昴」の内容を詳しく覚えているわけではないから、また1作目から「珍妃の井戸」までを読みなおさなければならない。
なにしろ登場人物が多い(愛新覚羅家の系譜に出てくる、特に乾隆帝以降20人くらい。その他、張作霖が率いる馬賊。袁世凱などの中国政府要人など)し、出来事も多い(義和団事件、張作霖爆殺事件、戊戌の政変など)。しかも、長い。3部で10冊。しかし、面白い。面白いというより、いい。すごく、いい。
浅田次郎氏は、純文学からユーモアエッセイまで、とても幅広い分野の作品が楽しめる。
全てに共通するのは、信じられないほどの豊富な語彙数、信じられないほどの豊かな表現力、全体を通しての文章構成力だと思う。そして出来上がった作品は、どんなに難しくても、辞書や地図帳などを調べてでも理解させずにはおかない魅力を持つ。
例えば山岡荘八氏の「徳川家康」は26巻もあるが、一貫して史実通りの歴史文学だ。しかし浅田氏の作品は、架空の人物や事物も取り入れられ、山岡氏や吉川英治氏の作品とはまったく異なる。史実通りではない。だから歴史小説とは言わないだろう。
蒼穹の昴、ぜひ一度お読みいただきたい。そして、西太后と春雲(架空人物)とのやりとり、春雲の嘆き、張作霖の言葉、それらを堪能していただきたい。

2022年11月17日

歳をとるということ

今年で61歳になる。そう、名実ともに「おっさん」である。いや「じいさん」か。
呼び名など、どうでもいい。どう呼ぼうが、61歳は61歳だ。
こう言うと、悲観的に聞こえるのかもしれない。でも私は、歳をとることは嫌なこととは思っていない。

・20歳代前半でできたことが、30歳代では(簡単に)できなくなっている。
20歳代でやっていることなど、どうせ大したことではない。それができなくなっても、何の影響もない。
「できなくなった」ではなく「しなくなった」のだ。それが「大人になった」ということだ。
・30歳代で結婚して、自分勝手な身動きが取れなくなった。
結婚相手(妻)は、結婚相手が私では、「肩身が狭くなった」のかもしれない。
・40歳代で塾を設立して「先生」と呼ばれ、まじめに生きなくてはならなくなった。
先生と呼ばれようが呼ばれなかろうが、40歳にもなれば、まじめに生きろ。
若いころは「ヘタなギタリスト」だったのが、今では「ヘタなりに、よく頑張っているじゃないか」と、暖かい目で見てくれる。
など、いいところだらけだ。
歳をとることの欠点は、説教っぽくなること、羞恥心がなくなること、カロリーや塩分を控えなければならないこと、頑固になること、帰宅すると家族は2階に行ってしまうこと、休みの日には夜8:00には眠くなること、その他12~13個しかない。
世の中のオヤジたち、オヤジくさい若者たち、オヤジのような女たち、元気を出していこう。
私たちが元気を出せば、それはそれで周りが迷惑するだろうが、元気を出さなくても迷惑に思われているのだ。若者たちには私たちオヤジの価値がわかっていない。それもそうだ。オヤジ自身、自分のどこに価値があるのかわからないのだから。オヤジ自身、他のオヤジに近づいてほしくないと思っているのだから。
いかん。歳をとることを悲観するなと言うはずだったのに、自分で自分の首を絞めているような気がする。

2022年9月24日

教育指導要領の改訂後

この塾を開いて、もうすぐ20年がたつ。学校の教育指導要領が10年ごとに改定されるから、今まで私は3種類の教育指導要領に従って授業をしてきたことになる。
直近の改定が2020年に終わっているが、これまでの2回に増して、今回の改定後の授業を受けている児童・生徒の学習状態が心配である。簡単に言うと、「教科書に書かれている内容や高校受験に出題される問題に対応できるほどの学力に到達していない」ということである。
中学生を例にとると、確かに学校の定期テストの結果は(高得点とは言えないまでも)心配するほどではないように見える。しかし定期テストには答えられても、塾のテキストの問題や私の質問には、とたんに答えられなくなる。間違いなく、それらに類する問題を学校授業では解いているはずなのに。しかも、答えを出そうと努力して考える様子も乏しい。
それもそのはずだ。彼らは定期テスト前に、教科書に書かれたとおりに、先生のプリントに書かれたとおりに、先生が教えたとおりに解答が書けるように練習しているだけだからだ。教科書ワークを解くときに、考えて解いているのではなく、正しい答えを(教科書やプリントから)探しているだけだ。先生も生徒も、そのこと(考えるのではなく、さがすこと)を「勉強」だと思い込んでいるのかもしれない。何度も言うが、頭を使って考えているのではない。だからどれほど時間をかけて勉強しても、実際には「作業」に等しい行為だから、学力として定着しない。テストが終わると、あっと言う間に忘れてしまう。
先生たちは「考える」指導をすればいいのだろうが、もしかしたら、そういう指導はできないのかもしれない。なぜなら、先生自身が中学生時代に「考える学習」をしていないかもしれないからだ。言われたとおりに覚え、書いてある通りに答え、自分の考えで物事を進めてはいけない。学習は〇が大事で✕がダメ。考える過程よりも結果が大事。そういう経験をしてきた人たちが先生になっているのではないか。
そういえば、「ゆとり世代」という言葉がある。2002年から2011年の間に義務教育を受けた世代だ。今の年齢は18歳から35歳ということになる。若い先生なら、この「ゆとり教育」を受けている。
ゆとり教育の特徴として一般的に言われていることは、
・ストレスに弱い。
・失敗を恐れる。
・指示されたことしかできない。
・自分の都合を優先する。
などである。
まさに今、私が児童や生徒たちに感じていることそのものである。
もし「ゆとり教育を受けた先生」が「ゆとり教育通りの教育」を行っているなら、今の児童・生徒も「ゆとり世代」と言えるのではないか。
勉強は、芸術やスポーツなどと同様に、努力なしでは身につかない。しかし勉強は、芸術やスポーツとは違い、能力やセンスは要らない。きちんと取り組みさえすれば、誰でも一定のレベルには到達する。だからと言って、これさえやれば誰でも解けるという「勉強のやり方」は存在しない。自分自身の「勉強のやり方」を身につけるしかない。せめて、それくらいの力をしてほしいと思う。
受験生でないなら、1日に何時間も勉強する必要はない。私が出す塾の課題と学校の宿題とを合わせて、家庭学習は30分~1時間程度で良い。そうすれば、ストレスに強くなり、失敗などものともせず、自分の頭で考えて生きていけると思っている。
〇でも✕でも、どっちでもいいじゃないか。✕の結果から何か学べるものがあるなら、それは〇に等しい価値があるんだぞ。学べ、学べ、学べ。今日できなきゃ、明日にはできるようになれ。明日できなきゃ、明後日できるようになれ。僕らの目は、前を見るためだけについているんだぞ。

2022年7月25日

賢くなれない人間

ある日のテレビで、評論家の田原総一朗氏にインタビューする番組を見た。場所は田原氏の仕事場だった。驚いたのは、その蔵書の多さだった(そこからは、インタビューは聴いていなかった)。部屋中が、多数の(と言うより、おびただしい量の)書籍で埋め尽くされていた。「仕事場に本を置いている」というより、「本を置いている部屋で仕事をしている」といったほうが正しそうだ。
氏は、評論家としてジャーナリストとして、実際に体験し、自身の目や耳で情報を得、目に見ることができず耳にすることもできない情報は書籍から得てきたのだろう。そう考えると、彼の頭は私などが想像もできないほどの「情報」と「知識」と、さまざまな経験と情報と知識から構築された「思想」と「価値観」が詰まっているのだろうと想像できる。そしてその頭脳は、いつまでも満たされることはないのだろう。
また別の話。私は、哲学者の土屋賢二氏の著書を愛読している。「哲学者の著書」といっても、氏の哲学書を私が理解できるはずもなく(実際、何冊かに挑戦したが、わからないまま読み終わった)、「ユーモアエッセイ」である。これがおもしろい。哲学者らしく、言葉を駆使し、矛盾した表現をそれと気づかれないように操り、たまらなくおもしろい。発行された氏のエッセイ(発行数は哲学書より多いかもしれない)は全て読んだ。そこには何篇が何作あるのだろう。どの作品も知性あふれた秀作だと思う。ソクラテスやプラトンあるいはウィトゲンシュタインなどの哲学者のみならず、私などが生涯耳にすることがないであろう数多くの哲学者の研究もなされており、しかも哲学者でありながら(と申しては大変失礼だが)物理学やITなど、まるで畑違いの分野にも造詣が深い。造詣が深いといえば、氏はジャズピアニストとしてもご活躍で、ジャズについても一家言をお持ちである。
田原氏が得てきたさまざまな情報やそれをもとにした思考は、何十年か後(率直に言うと、氏の没後)にはどうなっているのか。テレビを見ながら、そんなことを考えてしまった。同様に考えると、土屋氏の哲学的研究と思想は、今後どうなるのか。実は、疑問に思うまでもなく、答えは簡単だ。かなりの部分が消滅するのだ。
技術は継承できる。次代の人は、先代が存命中に、その技術を習得すればいい。またコンピュータを利用すれば、情報ももれなく収集できる。しかし人が知的に思考する部分、特に「その人の判断」は、その人にしかできない。情報をどれほど機会に入力しようが、統計的な判断や確率的な(客観的な、あるいは一般的な)判断しかできない。その「その人」が没するのだから、別の人が判断する場合、その別の人が経験しなおすか、自身の目や耳で情報を収集するしかない。要するに「イチからやり直し」だ。
人が賢くなれない原因はそこにあると思う。世代が変わるごとに、まるで継承しているかのように文明も文化も変わり続ける。しかし実際は、「イチからやり直し」「リセット」を繰り返しているのかもしれない。知性は継承できない。だから、人類が誕生して何百万年が過ぎても、人は愚かなままなのかもしれない。

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