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2021年6月15日

やっぱりオリンピックは行われる

ある日の朝刊に、ある市長の発言が掲載されていた。

「無観客でもなんでも、必ずやるべきだと思う」

「厳しい状況なのはよくわかるが、選手の立場になったら4年に1度の五輪への思いは強い。なんとしても試合はやるべきです」

「なんとしても」ということは、「たとえ何が起ころうとも」ということだろうか。「たとえコロナ禍が今以上に深刻になったとしても」ということだろうか。ご自身がお住いの市民がコロナで犠牲になったとしても、とでも言うのだろうか。

この言葉を、この度のコロナ禍で亡くなった方々のご遺族の前でも、やはり言えるのだろうか。不思議でならない。

私としては、こう言ってほしいと思う。

「無課税でも支援金支給でも何でも、市民に対して、必ずやるべきだと思う」

「厳しい状況なのはよくわかるが、市民の命を守るというなら、(参加選手の)4年に1度の思いが強くても、何としてでも(五輪は)中止するべきです」

私は、五輪が悪いイベントだと言うのではない。五輪を実施するにあたっての環境が整っていない状況での実施を反対だと言っている。

「安全・安心な五輪」と言うが、具体的な安全対策を提示していない。どころか、役にも立たないマスク配布を始め、見当はずれな「対策」で、しかも大きく時期を逸している。さらに言わせてもらえば、政府や自治体が行う対策は「国民に我慢を強いる」こと以外、何をしてくれているのか。

やはり、自分の身は自分で守るしかないのか。

2021年3月25日

学習体験会のご案内。

光輝学院では当塾の指導内容や授業の雰囲気をお伝えするために学習体験会を行います。
参加無料ですので是非お気軽にご参加ください。

日時:4月3日(土)・10日(土)
場所:光輝学院
予約・問合せ:042-438-3155

2020年12月21日

1年を振り返る

今年はコロナ禍で、普段していることをしなかった年だ。本屋さんにも行かなかったし、スーパー銭湯にも、居酒屋さんにも行かなかった。趣味でやっているバンドのライブ出演も、キャンプもしなかった。

でも一方で心がけたことは、「できない」ではなく「しない」ことだ。本屋さんに行けなかった、ではなく、本屋さんに行かなかった。キャンプができなかったのではなく、キャンプをしなかった。「できない」と「しない」では大きな差がある。「できない」と思えば、例えば、それを不満に思うこともあるだろう。また例えば、ストレスにもなるだろう。ところが「しない」と考えれば、しない代わりに、他のことをしたくなる。本屋さんに行かないなら、自宅に座ったままでインターネットで書籍を調べればいい。電子書籍なら、ポチっと一発、その場で買うこともできる。レジにも並ばない。重い本を持ち帰ることからも解放される。居酒屋さんには行かなければ、武蔵野中央公園や小金井公園で、野外の飲食を楽しむことができる。今のこの厳しすぎる寒さも一興だ。「雪見酒」なる風流な言葉もあるくらいだ。

さらに今年は、水彩画を始めた。絵具を使うのは高校卒業以来だから、かれこれ40年ぶりだ。公園に行くと、小さい画用紙に小さいパレットで、風景を描いている人を見る。あんな風に描いてみたいと思ったのだが、現実は冬の公園以上に厳しい。まずは手始めに静物画で「りんご」に挑戦した。数十分後に描き上がってみると、派手な迷彩服をまとった兵士がうずくまっているようにしか見えない。おもしろい。これほどヘタなら、これから上手になり放題だ。

冠婚葬祭や通院などの「他に選択肢がない」場合は、もちろんこの限りではない。そうでなければ、できないことを「できない、できない」と嘆いていても、できないことに変わりはない。それでは、それ以外の「できること」にさえ目が向かなくなる。しかし、できることを探せばいくらでもある。これは「気の持ちよう」ではない。「見方を変える」ということだ。勉強していても「わからない」「できない」と思うことがあるだろう。その時に「わからないからやらない」「できないからやらない」になってはいけない。わかるところまでやればいいし、できるところまでやればいい。文章題がさっぱりわからなければ、その問題文をノートに書き写すだけでもいい。問題を解くことができなくても、書き写すことは「できる」。何が何だかチンプンカンプンでも、「先生、さっぱりわかりません」と言えばいい。できないからといって、その一切を投げ出してはいけない。

まずは、君の「できる」を探してください。

2020年10月20日

人は「単なる数」か?

新型コロナウイルスが流行し始めて、もう10か月が経とうとしている。それでもまだ、今後も当分は収まる様子はない。

毎日、都知事が都内での患者発生数を発表しているが、その中で使われる言葉で気になることがある。それは、その日に感染が確認された人数を「本日の感染者数は~でした。」ではなく「本日の数字は~でした。」、「この人数については・・・。」ではなく「この数字について・・・。」と発表していることである。行政にかかわる方々にとって、都民は「人数」ではなく、単なる「数字」らしい。

例えば「50人の感染者が確認されました。」ということであれば、50人がそれぞれ感染したということであり、50人それぞれの事情があり、50人それぞれの仕事や生活や人間関係などに大きな影響があるということである。単なる「50という数字」ならば、50という塊あるいは単体でしかない。「1という数字」はひとつで、「100という数字」もひとつである。そこには、感染したことによる、ひとりひとりの痛みや悩みや苦しみがあることがうかがえない。ただの「数字」だからだろう。

多少の違いはあるものの、このような表現は、私たち塾業界でも使われることがある。

当塾は、毎年の高校ごとの合格者人数を発表を行っていない。それを秘密にしたいからではなく、合格した人を「単なる数字」として捉えてほしくないからである。ある高校に「10人が合格しました」といったときには、10人それぞれの受験生活があったことが読者に伝わりにくい。一人ひとりの受験事情に思いが至らずに、読者が塾選びをするときに「10人合格」よりも「20人合格」という数字のみで判断することは危険だと思う。

一般的には、偏差値65の高校に入学した者は、偏差値40の高校に合格した者よりも称えられるだろう。しかし、偏差値が高かろうが低かろうが、誰もがその高校に入学したいがために一生懸命に努力したことは事実だ。例えば偏差値60を65に上げる努力が、偏差値40を45に上げる努力よりも常に尊いとは言えない。

また第一志望校に不合格だった生徒にとっては、ほかの生徒が合格しようが不合格であろうが、何の関係もない。それは、第一志望校に合格した生徒にとっても同様だ。要するに、一人ひとりに思いを至らせなければならないということだ。

その考えは、通常の授業でも変わらない。

私は、12人の教室で授業を行う場合、「私1人:生徒12人」で授業を行っているつもりはない。「私1人:生徒1人」が12組あると考えている。

感染者だろうが塾生だろうが、「集団は個人の集まり」だということを忘れてはいけない。

2020年8月28日

塾生からの質問(2020年夏)

(塾生)

どうして学校では「ツーブロック」が禁止なのですか?

(私)

知らない。学校の先生に訊いてくれ。

(塾生)

学校の先生は「ツーブロックは、いざこざに巻き込まれやすい。」って言います。

(私)

その先生に「いざこざに巻き込まれたツーブロックの生徒を連れてこい。」って言え。

そもそも、ツーブロックだから巻き込まれるいざこざって何だ?

「おい、お前。ツーブロックだな? 張り倒してやる。」とか「ツーブロックのヤツがいたぞ。ツーブロックは、この辺の中学校のボスになる印だ。みんなでやっつけよう。」とか「お前、ツーブロックだな? 恐ろしいヤツだ。あっちに行ってくれ。」とか「このクラスでツーブロックにしているヤツ。パンとジュースを買ってこい。」なんて、あるのか?

気にするな。生徒手帳の「校則」に書いていなきゃ、校則じゃないだろ。

いっそ、スリーブロックやフォーブロックなんて、新しい髪形を発明してみたらどうだ?または、ただのカリアゲだかツーブロックだかわからないような微妙な髪形もいい。

くだらん。

2020年6月15日

コロナ禍に思うこと

今度のコロナウイルス蔓延(コロナ禍)によって、政治のリーダーたちの「利己主義」が見えたように思う。

まずは国の方針について。

まず挙げられるのが、緊急事態宣言の発出(よくわからない言葉だ。ここは「発令」だろうに)時期が、安倍首相が好きな「専門家」の意見よりも大きく遅れたことだ。中国やヨーロッパなどをみれば、感染者が発生した時点で大流行を予想することは容易なことだ。ところが、この宣言は(宣言によって国民の私権が制限されるだろうと)一般には否定的にとらえられていたから、首相は大きく出し遅れた。間違いなく、内閣の支持率低下を心配したものだ。

その後はもう、何をしても(あるいは、何もしなくても)裏目に出てしまう。アベノマスク配布(未だに受け取っていない人もいる)しかり、持続化給付金に関するさまざまな騒動、そして緊急事態宣言の解除時期の早さである。

これは、東京都の小池知事も同様だ。わけのわからないカタカナ言葉で茶を濁し、役に立たない「東京アラート」の宣言と解除、ステップなんとか。

そして打つ手がなくなった今度は「自粛から自衛へ」だ。結局、自分のことは自分でなんとかしろということだ。

これらの政治判断はどれも成功しなかった理由は、「国民を守るため」ではなく「選挙に勝つため」に行ったことだからだ。根拠や目的が的外れだから、効果も的外れになるのは当たり前だ。なぜあのタイミングで宣言なのか、なぜ給付金がこんなに遅れるのか、なぜマスクに多大な経費がかかるのか、そもそもなぜマスクなのか、なぜあのタイミングで東京都の自粛要請は解除されるのか。

私たちは、なぜ税金を払っているのか。日本に住んでいるだけで(何もしなくても)、その自治体に住んでいるだけで「住民税」やら「都民税」やら徴収される。それは、国や自治体が私たちに、生きるに必要なサービスを施してくれるからではないのか。それなのに、コロナ禍は始まってたった2か月程度で、なぜこんなにも多くの家庭が困窮するのか。なぜこんなにも多くの企業や店舗が閉鎖の憂き目にあわなければならないのか。

そしてオリンピックだ。「完全な形での開催」と言うが、国民には「新しい生活様式」(これも「自粛」を言い換えただけのものだ)を強制しておいて、オリンピックはこれまでと変らない形で実施しようというのか。そうまでして実施しなければならないオリンピックとは何なのか。

私の拙い文章ではうまく表現できていないのが残念だ。愚痴ではない。ほかに取るべき方法があるにもかかわらず、政治は一体なにをしているのかとの憤りがやまない。国民一人ひとりは精一杯がんばっている。もちろん、エチケットやマナーを守らない人も少なくない。しかしそれは、どの時代もどの世界にも必ずいる。そんな少数を例に挙げて「自粛が足りない」などと言ってはならない。

選挙目的の政策を実施するなら、「国民主権」とは何なのかを、私たち国民は政治家に対して、つきつけるべきである。

2020年5月 1日

9月新年度開始案に思うこと

9月の新年度開始が検討されている。これには、多くの地方自治体の首長や教育評論家も賛成しているという。

理由は、主なもので、2つある。

1.これまでも言われてきたように、「諸外国(これ、政治家の便利な言葉)では、9月の新年度開始があたりまえだ」

2.コロナウイルス蔓延によって、生徒・児童が教育機会を失われている。これを、9月の新年度開始によって仕切り直ししよう。

  でもね、もう少し考えましょうよと言いたい。

  まず1つ目。外国がそうしているからといって、なぜ日本が同じ制度を取らなければならないのだろうか。日本が海外と学年の開始時期が違うと、留学する者に対して、さまざまな問題が生じるという。しかし、これまで留学してきた何万人という学生さんが、教育制度の一部を根本から大きく変えなければならないほど多大な不利益を被ったのだろうか。

  2つ目。今後も大きな災害の発生や感染症の大流行が起きるだろう。その度に年度の開始月を変えるのか。しかも学校や自治体によって休校期間がさまざまなため、学習進度を無視して9月にリセットするというのか。

これでは、教育の放棄だ。教師たちの腕の見せ所を奪う行為だ。あるいは、教師たちの怠慢だ。留学するときに学習進度の違いによる不都合があるなら、留学前にしっかりと調整しておけばいいではないか。予定された期間内に予定された授業内容を行えない場合が生じたら、教師の工夫と努力で、予定通りの範囲を過不足なく終らせればいいではないか。生徒に努力を説くなら、言葉だけではなく、まず自分が努力して見せてほしい。

  教育(制度)を語るとき、その根拠は教育的効果を離れてはならないし、その効果や利益は間違いなく生徒たちが得るべきだ。外国がどうの、ウイルスがどうのという、教育とは全く関係ない理由で教育制度を変えようというのは笑止である。

  私は9月の新年度開始に反対しているのではない。それ自体には、賛成でも反対でもない。反対する理由は、どうも「うさん臭さ」がプンプンするからだ。教育は純粋でなければならない。青臭くなければならない。合理性を要求してはならない。理想論でなければならない。私は、そう思う。

2020年4月16日

学校教科書が配布された。

新年度の教科書と教科書ワークが生徒に配布された。なぜ、始業式の日から、こんなに時間がかかったのだろう。まぁ、これでやっと、自宅で新しい学年の勉強ができる。

塾は3月から新年度の授業を始めているが、この休校が2か月も続くものだから、授業の進み方が著しく速くなる。学校授業が止まっているのにもかかわらず、塾の授業だけが進みすぎるのは本意ではない。学校授業の質問を(塾で)しながら塾での授業を受けることが望ましいと思っている。勉強することにおいては、学校と塾は車の両輪だ。両方のバランスを欠いていて、その状態がまともな学習状態であるとは思っていない。

塾では、この教科書ワークを休校中の家庭学習のための宿題として使用する。国語を除いた教科を、1日につき各教科1ページずつ学習してもらう。そして塾では、午前中の補習時間(あるいは授業時間)を利用して、その解説を行う。

これをお読みのみなさん、これは当塾だけではないと思われます。たいていの塾では学校教科書を進めることになるでしょう。だから、もし今どこの塾にも通っていないなら、早めに(塾を)お探しになることをお勧めします。学校授業が始まって時点で、すでに追いつけないほどの差をつけられることになりかねませんから。

2020年3月13日

なぜ、勉強するのか。

「勉強ができなくても、できることは何?」塾生に訊いてみた。

これに対する答えが、「昼寝」「ゲーム」「穴を掘る」「散歩」などなど。

「絵を描く」というのもあったが、それは才能が必要だから、却下。

「勉強ができる人が、できることは何?」

これの答えは「読書」「サラリーマン」「お店の経営」などなど。

 

次の質問。

「昼寝やゲームって、毎日、朝昼晩やって、楽しいか?」

これには「さすがに、毎日となると...。」「1日中、穴を掘るのも...。」

「今日も読書、明日も読書。さぁ、仕事がんばるぞ。ってのは、あり?」

回答は「それは、ある。」「本が好きなら、毎日でも読みたい。」

 

私「勉強ができる人でも、ゲームはする?」

塾生「少しは、する。」

私「ゲームばっかりやっている人は、勉強する?」

塾生「あんまりしないんじゃない?する人もいるだろうけど...。」

 

ということは、勉強ができる人がすることは、飽きることがない事柄が多いということではないだろうか。ます、勉強自体が飽きることがない。勉強して、わからなかったことがわかると、次に新たな疑問がわく。そしてそれがわかると、また新たな...。勉強したいことは、尽きることがない。これは読書だろうが仕事だろうが同じことだ。本も仕事も、わかると(あるいは、できると)次々と手にしたくなる。

つまり、「おもしろい」のだろう。

そう。勉強や、勉強のおかげでできることは「おもしろい」。勉強を「努力」と置き換えてもいい。努力することで身についた力は、使えば使うほど「おもしろい」。

次に、努力した人だけができることは、努力していない人にはできない。つまり、努力する人は「できることが多い」と言える。「選択肢が多い」とも言える。

 

以前、勉強(=努力)する理由として「価値観が身につく」と書いた。しかし、そんな難しいことを言うよりも、

「努力すると、おもしろいことができる」

「努力すると、できることが増える」

という、このふたつで十分だ。

2020年2月28日

全国の学校、一斉休校?

頼りにならないとは思っていたが、本当にやってくれるよ。

そう。今の政府だ。

突然の「休校を要請」だって?「要請」って言っても、要請で済むか。

強盗が「お金を出してください。もちろん、出すかどうかは、あなたの判断ですよ。」

こんなのも「要請」か? そう、「要請」じゃなく「強制」じゃないのか?

しかも「地域の実情に合わせて、柔軟に対応してください」?

それは「丸投げ」って言うんじゃないか?

「休みは政府で勝手に決めました あとはそっちで進めてください」

その結果、学校の授業数が足りなくてもOKになるだけでなく、カリキュラムがガタガタに

なるから良質な授業は望むべくもない。

塾に来ている生徒はいい。昼間に「春期講習」のような形で授業をするから。

たとえ学校授業数が足りなかろうと、いい加減な授業が行われようと、夏休みが短くなろう

と、塾が全部ひっかぶってやる。

やっぱり公立学校はアテにならない。教育の独立性はない。教育は、令和になってもまだ、

政府の下位にある。

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