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2023年12月 4日

答えにたどり着くまで

光輝学院は、答えが「あっている」か「まちがっている」かは、大した問題ではない。
小学校から高校までの勉強とは、新しいことを学び修得することであろう。新しいことに取り組み続けるのだから、その問題を解いて、間違うことも少なくないはずだ。
大切なことは、正誤よりも、「自分は、どんな考え方をしたか」であり、間違っていた時も「なぜ、自分の回答が間違っているのか」「なぜ、その正答になるのか」である。
ところが多くの生徒は、「正しい答えは何か」ばかり追求する。正しい答えに至る考え方や正しい答えに必要な知識などには、ほとんど関心を持たない。
だから例えば数学など、
生徒「問2の答えは2です。」
講師「いいえ、違います。」
生徒「じゃ、-2です。」
となる。
この「じゃ」とは何なのか。「2」でなければ「-2」だ。この姿勢を「勉強している」というのか。答えが「2」になる考え方が間違っていたなら、その考え方のどこに誤りがあったのかを考えなければならない。さらに正答が「-2」なら、なぜその答えになるのかを考えなければならない。
自分が導き出した答えが合っていても間違っていても、どうでもいいではないか。間違うことで学ぶことがあるなら(むしろ、間違うからこそ学べることが多いのだが)、間違うことは決して悪いことではない。自分の答えが合っていたとしても、「教えられたとおりに解いたら、それが正答だった」というのでは、何も身につかない。
また、答えにたどりつくまでの道のり(思考過程)は、ひとつとは限らない。
例えば「三角形の合同」を証明する場合でも、「2辺とその間の角がそれぞれ等しい」で解いた生徒もいれば、「1辺とその両端の角がそれぞれ等しい」で解いた生徒もいるかもしれない。そしてそのどちらの解法も論理的に正しいのかもしれない。正答がひとつでも、思考過程・論理展開がひとつだとは限らないのである。
最初に発表し正答した生徒の解法と自分の解法が違っていても、直ちに自分が間違っていると判断せずに、自分の解法が正しかったのかどうかを確認しなければならない。
小中学生の学習は、黙って進めてはならない。ただ座って話を聞いているだけではなく、しゃべって、書いて、失敗を恐れず進めなければならない。
よく「わからないところがわからない」というが、それ以上しゃべることができなくなったとき、それ以上書くことができなくなったとき、そこがわからない場所だ。
わからないところがわかれば、あとは「やるだけ」だ。
そう。間違いを恐れず、しゃべって考え、書いて考え、考えてしゃべり、考えて書く。それが勉強だ。
これに尽きる。

2022年4月28日

定期的にブログを書く

また叱られてしまった。そう、またもや「早くブログを書け」と、卒塾生から命令された。子どものころは母に叱られ、学校では先生に叱られ、社員のころは上司と顧客に叱られ、結婚したら妻に叱られ、講師になったら在塾生と卒塾生に叱られている。これではまるで、夏休み残り1週間前になっても宿題に取り掛からない小学生のようではないか?ついこの間までは、私が指導する立場だったではないか。それとも実は、私が気づかないだけで、私が君たちに指導させられ続けていたのか?
確かに塾の方針は「学習とは、筋道立てた考え方を身につけること」と指導してきた。だからと言って、筋道立てて私を催促するのはやめてくれないか。何も言い訳できないではないか。これでも今年の正月には「今年こそは、ブログを定期的に書きます」という誓いを立てたんだ。これで5年連続の誓いだ(むしろ、5年も継続して誓いを立てる辛抱強さを誉める懐の深さを持ってほしい)。でも「定期的」を定義することは難しい。「毎週1回」や「毎月10日に」が定期的で、私のブログのように「1/31の次が2/19、その次が4/28」が不定期だとは直ちには言えないのだよ。「1/31、2/19、4/28」を毎年繰り返せば、それが「定期的」「規則正しい」だとも言えるのだ。「2時ころにカップラーメンを食べて、3時ころに寝て、13時ころに起きてゴロゴロする」ということを毎日繰り返せば、それはそれで「規則正しい」という非常に嬉しい結論になる。たとえその生活が望ましいものでなくても、規則正しい生活を送っていると胸を張って言える。
それにしても、なかなかブログを書かない正当な理由を正々堂々と述べても、少しも正々堂々とは思えないし、自分が正しいとは思えないし、むしろ後ろめたささえ感じるのはなぜだろう。
不本意だが、「定期的」「規則的」の定義を再構築しなければならない。その論理を構築するだけで2~3か月はかかりそうだ。今後しばらくはブログに取り掛かれそうにもない。

2015年3月24日

卒塾生が来てくれた

今日、この塾を卒業した元塾生が「大学を卒業しました」と、挨拶に来てくれた。

高校受験のために通塾した生徒だから、まる7年ぶりである。

卒塾して7年たっても、この塾のことを忘れずにいてくれたことがとても嬉しい。

一方、昨年度の受験で卒塾したにもかかわらず、まるで塾生のように来塾し、「センセ、学校でわかんないのがあったんだけど。」と、当たり前のように質問してくる女子高生。ついでに「センセ、今日のその服、ヘン。あははは。」

大きなお世話だ。

このような子のことも喜ぶべきなんだろう、きっと。

2015年3月18日

卒業

3月、卒業の時期である。この塾からも、少なくない生徒が卒業してゆく。

冬の厳しさに耐えた桜だけが、春、花を満開に咲かせることができる。

土の暗さに耐えた蝉だけが、夏、思う存分に鳴くことができる。

どんな咲き方か、どんな鳴き方か、それは僕にはわからない。

しかし、この塾で「考える力」と「耐える力」を身につけた君たちは、君たちにできる限りの生き方をするだろう。

一方では、困難に耐えたのに、実を結ばなかった者たちもいるだろう。

それは、ただ単に「今ではない」というだけだ。君にとってふさわしい時期がきっと来る。

その日まで、あきらめずに頑張れ。太陽は、みんなを、同じだけ照らしているぞ。

2014年11月 4日

これって...

中学3年生の授業中のこと。

Aさん「先生、学校で宿題が出て、尊敬する人について書くの。で、先生のことを書くことにしました。」

Bくん「あ、オレも。」

私  「ふ~ん(まんざらでもない)。」

Aさん「でもね先生、先生の何がスゴイのかわからないんです。」

Bくん「そうそう!そうなんだよね。」

私  「・・・」

2014年6月20日

運動会の不思議

先日、愚息の公立中学校で運動会が行われ、そこでは組み体操やダンスが行われた。面白いことに、大勢の観客(主に保護者だが)からは彼ら彼女らの後方からと側面からしか見えない。正面から見える場所はわずかしかなく、そこに保護者が群がることになる。

その後、PTAの会合があり、そのことが取りざたされた。なぜ保護者からよく見えるフォーメーションにしないのか。答えは驚くべきものだった。

なんと、運動会は保護者に見せるものではなく、来賓に見せるために行われるのだという。

知らなかった。運動会とは、知育・徳育・体育のうち、体育の成果を保護者に発表する場だとばかり思っていた。

そんなことさえ知らずに、50歳を越してしまっている。

2014年3月21日

春、来る

この時期の楽しみのひとつが、この塾で学んだ者たちからの近況報告である。

昨日の電話は、高校を卒業して1浪した元塾生からだった。昨年卒業したのだが、そのときには連絡がなかった。私の想像通り、現役合格は果たせなかったのだ。

今年は、都内の国立大学に進学が決まったと言う。

おめでとう。これからは、将来を嘱望される大学生である一方、光輝学院の講師として私を助けてほしい。そして、将来の大人を育ててくれ。

2013年12月 7日

特定秘密保護法

なんだか嫌な雲行きだ。教育基本法が変わり、特定秘密保護法が成立した。次は憲法改正か?

治安維持法を詳しく勉強したわけではないが、今回の保護法は、プンプンその匂いがする。そう、まるで軍国主義化だ。

私の郷里である山口県からは、安倍総理を含め、8人の総理大臣が誕生している。言うまでもなく、松下村塾を起源とするものである。塾の創設者玉木文之進や、それを継いだ吉田松陰は、このような世を望んだのであろうか。

それにしても、民主党の罪は大きいと言わざるを得ない。民主党の失敗は、ただ民主党の失敗ではなく、「やはり政治は自民党でなければ成り立たない」という印象を国民に強く植え付けてしまったことだ。

自民党を支持したくなくても、今や、それに代る政党はない。もし国民に支持されるような政党ができたなら、今度は一挙にそれに流れる可能性がある。それでは、ただ単に自民党支配がその新しい党の支配に変わるだけだ。より一層のファッショ化の流れが加速する恐れがある。

どんなに嘆こうが、その時代の政治家を選んだのは、その時代の国民である。従って、政治の不始末の責任を負うのは、私たち国民である。

2013年11月11日

オヤジ・オールスターズ

来る12月1日、柳沢六角縁日というお祭りがある。ひょんなことから、このお祭りに参加することになった。

それが表題の「オヤジ・オールスターズ」である。そう、オヤジだけで構成されるバンドである。私は、そのドラムを務めることになった。

昔はヘビーメタルのバンドをやっていたが、それはギターとボーカルだった。

今度は、聞いたこともない「ゆず」やら「斉藤和義」とやらの、ちょっとしたコピーである。不安だ。

しかも、ドラムである。ますます不安だ。

そして、オヤジである。不安という言葉に最上級がないのが残念だ。

縁日で、下手なドラムを叩く上品な紳士がいたら、それは私だ。

2013年10月 7日

運動会

昨日、一日遅れで、愚息が通う小学校の運動会が催された。

一生懸命に走り、舞い、形づくり、戦った。

どれほど練習し、どれほど集中し、どれほど力を尽くしても、それが形として報われることはない。

それでも児童たちは額に汗して頑張っていた。競争に負けて、涙を流す児童もいた。

赤が勝っても白が勝っても、次の日にはもう、何もなかったかのように、いつもの日々が始まる。

死力を尽くす目的は、ただ「勝ちたい」だけであり、ただ「きちんと演じたい」だけである。

報酬のない努力に力を惜しまない、人生にたった一度きりの時代をすごしている幸福を、

その真っ只中にいる児童たちは、誰も気づかないのだろう。