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2022年6月30日

正しい報道のあり方とは

2020年春に新型コロナウイルスが蔓延しはじめたころから、報道が生活に与える影響をじっくりと(5分くらい)考えた。考えれば考えるほど、日本の報道番組は「正しい報道のあり方」に従っていると気づかされる。

1.生活必需品の品不足は一時的なものであると、国民を安心させる力がある。
レポーター:「こちらは〇〇地区にあります、スーパー△△です。ご覧の通り、このお店にある食料品の棚という棚が、すっかり空っぽになっています。開店時の映像をご覧ください。50人以上の方々が朝早くから行列をつくり、開店と同時になだれを打って入店してきました。そして我先にと、ものの10分程度ですべての食料品が買われていきました。昨日もおとといも、その前の日も、ずっと同じことが起こっています。さらに、これはこの店舗やこの地区に限ったことではありません。あちらこちらで品不足が起きています。でも安心してください。このお店は、午後3時にはまた入荷されます。」
スタジオ:「(なだれを打って入店してくる様子を背景に)そうですか。それは安心ですね。商品はあります。みなさん、ゆっくり買い物をしてください。そして、買い占めなどをしないでください。」
これは、品不足を報道しているのではない。1日に(たった)2回の納品が正常に行われていることを告知し、国民を安心させているのだ。安心させているのだから、午後の納品時間を広く知らせても、国民が品不足を不安に思い、スーパーに殺到し、商品の買い占めが起こることはない。

2.外出自粛要請中にもかかわらず、多くの人でにぎわう街の様子を映し、注意喚起を行っている。
レポーター:「すごいです、この人波は。外出自粛が叫ばれている中、多くの人が出かけています。なかには、手に何か食べ物を持って、それを食べながら歩いている人もいます。」
スタジオ:「どうですか、〇〇さん? 外出自粛を守っていない人って多いですね。感染が心配じゃないのでしょうか。」という背後には大きな画面がある。その画面には、新宿・渋谷・銀座・吉祥寺などが分割して映されている。どの分割画面にも、楽しそうに買い物をする家族や夫婦、楽しそうに歩くカップルや学生たちが映っている。
これは、コロナ禍の中を楽しく過ごす人たちを映したいのではない。社会の暗黙のルールを守らない人に注意を促しているのだ。こんなことは控えましょうって言っているのだ。だからこれを見て、「なぁんだ、みんな楽しくやっているじゃないか。」とか「自分も遊びに行こうかな。」などと思ってはいけない。

3.正しい節電方法を知らしめている。
「電力需給ひっ迫警報が発令させる可能性があります。視聴者のみなさん、どうか節電にご協力ください。エアコンの温度は28℃、不要な照明器具は消してください。冷蔵庫の温度設定は中程度に、トイレの温水洗浄便座のスイッチも切ってください。電気炊飯器は3食分を1度にまとめて炊いてください。」という細かい情報を、ネクタイはきっちりと締め、スーツまたはスリーピースをビシッと決め、まぶしいほどの明るいスタジオで、汗ひとつかかずに伝えなければならない。「こんな時くらい、ポロシャツでいいではないか。せめて、ネクタイや上着は要らないのではないか。」と思ってはいけない。理由は知らないが。

このように、日本の報道は現在の正直な社会の状態を広く伝えている。むしろ社会不安を煽っているように感じてしまうことがあるなら、それは見る側の問題である。きっと。

2022年6月13日

私とKと

中学生までの私は、勉強も運動も遊びも、何もかも人並み以下の少年だった(今は、人並み以下の中年だ)。友達もロクにできなかった(今は、ロクな友達がいない)。授業中、先生に指名されても、黙ったままで何も答えることができない日々だった(今は、妻に金の使い道を訊かれても、黙ったままで何も答えることができない日々だ)。楽しくなかった。心が晴れる日など、一日もなかった。
中学3年生になっても変わらず、毎日ボーっと過ごしていた(今は、ボーっとしていない。詳しくは、この後すぐ)。興味を持っていたことといえば、たった1つ、ベイシティローラーズというロックバンドだった。タータンチェックのコスチュームを身にまとい、何万人というファンの前で演奏する姿に(ボーっと)魅了された。
中学校最後の夏休みも相変わらずボーっと過ごし、2学期が始まって間もないある日のことだった。同じクラスの「K」が私に声をかけてきた。
「高校に入ったら、一緒にバンドつくらんか?」
その頃の私は担任の先生から、同級生のほとんどが進学する、近隣の公立高校には合格できないだろうと言われていた(が、危機感などなかった)。
その言葉に、どう返事をしようか考えた。より正確に言えば、考えるフリをした(考える知恵などなかった)。そして、答えた。
「ベイシティローラーズを演るなら、ええよ。」
その夜、帰宅してから、母に言った。
「お母はん、高校に入ったら、Kとバンドやってもええ?」
母としては、それで受験勉強してくれるなら、何の問題もない。合格と引き換えに、楽器を用意することくらい安いものだ。加えて、当時の山口県は明治維新の気風が残っており、「男子たるもの、生まれたからには、やると決めたら失敗を恐れず突き進め」であった。
「ええよ。若いんじゃけ、バンドでも何でもやりゃええ。」
それからは、勉強した。いや、勉強らしきことをした。そして、何とか合格した。
高校の3年間は、毎日がバンド漬けの日々だった。寝ても覚めても音楽のことしか頭になかった。母にしてみれば「受験勉強のときしか勉強しないのか?」と、さぞ残念だったろう。しかし、音楽のことを考えるのが楽しくて、ボーっとすることはなかった。
その後、大学受験と大学の勉強で何年間かのブランクがあったものの、ずっとバンド活動を続けている。私はロッカー(ROCKER)としてメシを食い、ロッカーとして眠り、ロッカーとして仕事をした。今でも、ロッカーが講師をしている(講師がロックをしているのではない、と思い込んでいる)。ちょっと言い過ぎた。本当は、ただのロック好きの講師かもしれない。そういう今の私があるのはKのおかげだ(と言っても言い過ぎだ)。ただ、今の私になるきっかけを作ってくれたのはKだ。それは間違いない。
高校卒業後、Kは九州の大学に進学し(その後は、郷里に戻って家業を継いだ)、私は東京で生活をしている。だから私たちは全く疎遠になってしまったが、Kには感謝している。心から感謝している。
K、冥福を祈るぞ。