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2022年6月13日

中学生までの私は、勉強も運動も遊びも、何もかも人並み以下の少年だった(今は、人並み以下の中年だ)。友達もロクにできなかった(今は、ロクな友達がいない)。授業中、先生に指名されても、黙ったままで何も答えることができない日々だった(今は、妻に金の使い道を訊かれても、黙ったままで何も答えることができない日々だ)。楽しくなかった。心が晴れる日など、一日もなかった。
中学3年生になっても変わらず、毎日ボーっと過ごしていた(今は、ボーっとしていない。詳しくは、この後すぐ)。興味を持っていたことといえば、たった1つ、ベイシティローラーズというロックバンドだった。タータンチェックのコスチュームを身にまとい、何万人というファンの前で演奏する姿に(ボーっと)魅了された。
中学校最後の夏休みも相変わらずボーっと過ごし、2学期が始まって間もないある日のことだった。同じクラスの「K」が私に声をかけてきた。
「高校に入ったら、一緒にバンドつくらんか?」
その頃の私は担任の先生から、同級生のほとんどが進学する、近隣の公立高校には合格できないだろうと言われていた(が、危機感などなかった)。
その言葉に、どう返事をしようか考えた。より正確に言えば、考えるフリをした(考える知恵などなかった)。そして、答えた。
「ベイシティローラーズを演るなら、ええよ。」
その夜、帰宅してから、母に言った。
「お母はん、高校に入ったら、Kとバンドやってもええ?」
母としては、それで受験勉強してくれるなら、何の問題もない。合格と引き換えに、楽器を用意することくらい安いものだ。加えて、当時の山口県は明治維新の気風が残っており、「男子たるもの、生まれたからには、やると決めたら失敗を恐れず突き進め」であった。
「ええよ。若いんじゃけ、バンドでも何でもやりゃええ。」
それからは、勉強した。いや、勉強らしきことをした。そして、何とか合格した。
高校の3年間は、毎日がバンド漬けの日々だった。寝ても覚めても音楽のことしか頭になかった。母にしてみれば「受験勉強のときしか勉強しないのか?」と、さぞ残念だったろう。しかし、音楽のことを考えるのが楽しくて、ボーっとすることはなかった。
その後、大学受験と大学の勉強で何年間かのブランクがあったものの、ずっとバンド活動を続けている。私はロッカー(ROCKER)としてメシを食い、ロッカーとして眠り、ロッカーとして仕事をした。今でも、ロッカーが講師をしている(講師がロックをしているのではない、と思い込んでいる)。ちょっと言い過ぎた。本当は、ただのロック好きの講師かもしれない。そういう今の私があるのはKのおかげだ(と言っても言い過ぎだ)。ただ、今の私になるきっかけを作ってくれたのはKだ。それは間違いない。
高校卒業後、Kは九州の大学に進学し(その後は、郷里に戻って家業を継いだ)、私は東京で生活をしている。だから私たちは全く疎遠になってしまったが、Kには感謝している。心から感謝している。
K、冥福を祈るぞ。

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