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2024年11月29日

前回の本欄で、「努力して勉強するのではなく、勉強することで努力する力を身につける」という内容のことを書いた。こうして、一般に言われていることを逆にすると、むしろそのほうが腑に落ちることがある。

・本を読めば国語(または「勉強」)ができるようになる。
 →国語(または「勉強」)ができる人が本を読む。
夏目漱石や太宰治の作品がおもしろくないと感じるのは、実際には「おもしろくない」ではなく、内容を理解する能力が身についていないからだ。文章に使われている漢字や二字熟語・四字熟語などの、言葉の意味や表現がわからなければ、作品全体の内容は理解できない。
もともと、文学作品の多くは、読んでワクワクするものでもなければハラハラ・ドキドキするものではない。むしろ文章自体は堅苦しく古臭く感じるものだ。だから、文学作品にストーリーのおもしろさを期待してはいけない。大切なのは「文章」ではなく、「行間」だ。ある程度の日本語力(または「国語力」)が身についていない人が本を読んでも、書かれている言葉や表現がわからないのに、書かれていない「行間」が理解できるとは思えない。
野球やサッカーなどのスポーツを楽しもうと思ったら、十分な体力とボールを正確に扱える技術が必要になろう。絵を描いたり楽器を演奏するなどの芸術を楽しもうと思ったら、筆使い・色使いや音符の読み方を身につけなければならない。いきなりホームランを打ったり、ゴールを決めたり、ピアノが弾けるようになるわけではない。どれも、それを楽しもうと思ったら、まずはそれぞれに必要な基礎力を身につけることが大切だ。基礎力を身につける過程は地味で遠回りで苦しい。しかし、地味で遠回りで苦しい時間を耐えてきた者だけが、それを楽しむことができる。
言葉の力は、読書にだけ必要なのではない。私たちの日々のコミュニケーションは、人が話したり本に書かれている日本語を理解し、日本語で考え、日本語を話すことで成り立っている。国語や社会だけでなく、数学だろうが理科だろうが技術家庭科だろうが、頭の中では日本語で考えている。
何をするにも、まずは日本語力を身につけなければならないのだと思う。
(次回に続く)

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