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2025年5月23日

学校公開に行ってきた

先日、塾生が通う中学校の学校公開に行ってきた。
塾生の様子ではなく、先生の授業を観るためだ。
中3の英語・国語・社会と中2理科、中1英語を参観した。
結論から言うと、どの授業も、とても退屈した。

例えば中2の理科だ。
詳細は省くが、元素記号が書かれたトランプのようなカードを1枚ずつめくっていき、分子を完成させるものだ。水素分子なら、Hのカードを2枚集める。水ならHのカードを2枚とOのカードを1枚集める。
それで終わり。

その日、塾の授業で訊いてみた。
「あの授業って、何の役に立つの?何を学ぶ授業なの?」
塾生が答えた。
「何を学んだか、ですか?何でしょうね。言われてみると、わかりません。」
「君らは、何を学んでいるかわからずに、あのカードゲームをやっていたの?」
「まぁ、はい。」
「では訊くが、そもそも、原子って何だ?」
「最小の粒子です。」
「原子が最小なんだね?あれ、電子って学ばなかった?」
「あっ。」
「そうだよね。原子は、原子核と電子でできているよね。すると原子は最小の粒子ではない。じゃ、原子がくっついてできる、分子って何?」
「そう言われると、説明できません。」
「君らは、原子も分子も何だかわかっていないんだな?じゃ、また訊くけど、Hが2枚でH2の水素分子ができるんだよね?Hが3枚でH3とか、4枚でH4は作れないの?」
「はい、ダメです。」
「なぜだ?」
「・・・わかりません。」
「原子も原子核も電子も分子も、わからない。Hがどうして2つしかくっつかないのかもわからない。そんなんで、原子分子を勉強したことになるの?」
「・・・」

私に言わせてみれば、業の形を整えただけのようにしか思えない。
もっと言わせてもらえば、ただの「時間つぶし」だ。
あれが「学校教育」とは、少し泣けてくる。




2025年5月 8日

「やばい」に意味はあるか?

そう。最近の若者が頻繁に使う「やばい」「えぐい」あるいは「かわいい」などの言葉は、意味を持っているのだろうか。
どうして、そう思うのか。

一般的な20歳以下の人たちを考える。
すごくおいしいラーメンを食べたとする。その感想で、「やばい」は使わないだろうか。一方で、すごくまずいラーメンを食べた時に「やばい」は使わないだろうか。
野球で、大きく曲がるスライダーの投球を見た時、「えぐっ」と言わないか。あるいは、どこかの国の暴動で多数のケガ人の報道を見た時、「えぐっ」とは言わないだろうか。
つまり、好ましく感じた時も嫌悪感を感じた時も「やばい」「えぐい」が使われる。しかも、ひんぱんに。
いい時も悪い時も使われるのだとすると、それはもはや「感想」とは言えないのではないだろうか。
何を見ても、何を食べても、何をしても。うれしくても悲しくても、楽しくても怒りを感じても。いつでも何でもかんでも「やばい」「えぐい」では、「ただ言葉を発しました」でしかない。

似たように感じる言葉が「かわいい」や「きもい」である。
幼い子供や動物を見た時「かわいい」と感じることはわかる。「きもい=気持ち悪い」も、強い不快感を覚えた時に使うことはわかる。
ところが最近(といっても、もう10年以上も前からだが)では、必ずしも、そのような場面でだけ使われているのではないようだ。
少しでも自分の好みや感覚に合致すれば「かわいい」、少しでも自分の好みや感覚に合わなければ、とたんに「きもい」が使われる。
何かを見た時の感想は、「かわいい」か「ふつう」か「きもい」である。自分の感想を表現するときの言葉が、たった3種類である。極めて単純な分類である。

難しい言葉を使ってほしいわけではない。ただ、「あいまいな表現」「何にでもあてはまる表現」「単純な分類」ばかりでは、日本人としての感性が養われないような気がする。
その結果、誰かとコミュニケーションをとる時でも、相手が一体どう思っているのか、何が言いたいのか、どう返事をすればいいのか、そういったことを理解しえないまま会話が進むような気がする。
それを「コミュニケーション」「会話」と言えるか?

当塾では、使ってはいけない言葉がある。「やばい」「えぐい」も、もちろん使ってはならない言葉である。