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2019年8月 6日

高校野球が甲子園で始まった。

このところ、佐々木選手という投手のことを耳にする。なんでも、地方予選の決勝戦では、彼の登板機会がなかった。それは監督の判断であった。その結果、彼の学校は敗戦となり、甲子園への道は絶たれた。佐々木投手さえ投げていれば...。野球はチームプレーだから、チームよりも個人を優先することは言語道断だ、という意見が多いように思える。

果たしてそうだろうか。プロ選手であれば結果(=チームの勝利)が何より優先されるべきであり、それができないならプロ選手とは呼べないと言っても過言ではなかろう。しかし、彼はプロの野球選手ではない。高校野球は部活動の一環として行われるものであり、部活動は、学校教育の一環として行われるものである。

学校教育が生徒の健康を害してまで行われるべきかどうか、そういう角度で検討すれば、また別の結論が出るのではなかろうか。

佐々木選手にしても、決勝戦で投げたかったであろうことは容易に想像できる。自分が投げなかった試合が負けたことも甘受しなければならないことも、本当につらかっただろうと思う。しかし、それこそが教育ではなかろうか。「我慢」とか「忍耐」とか言われるものは、若い、いや、青年になる前(高等学校を卒業する前)の段階で身につけなければならないと思う。その点では、今回の判断は「教育的」だったと言えるだろう。

では、彼に登板させた場合は「教育的」だったと言えるだろうか? 投げていないから、投げた後の結果(勝敗・体調など)がわからない以上、議論のしようがない。

社会では、上に立つ者(先生・監督・コーチ・社長など)の言動が常に正しいとされ、自分の判断を優先させてはならない。それが「組織」である。上の者の判断に従えないなら、その組織から離れるしかないだろう。

そんな小難しいことより、「ケガがなくて良かったじゃないか。この悔しさはプロで晴らせ。」私なら、そう言ってあげたい。

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