平和を考える
安保法制の賛否が喧しい。
そもそも、積極的平和主義なんて言葉があるのだろうか。平和主義という言葉自体が怪しい。
「私は平和主義ではありません」という人を、私は見たことがない。みんなが平和主義である。
違うのは、平和主義の具体的な実現方法である。軍事力のバランスによる平和主義もあれば、軍事力を持たない平和主義もある。つまり「平和主義」という言葉は、あらゆる場面で使うことができる、今や意味のない言葉になってしまった。
1929年に始まった世界恐慌から抜け出すために、アメリカはニューディール政策をとり、イギリスやフランスはブロック経済を行った。そしてドイツは独裁政治に舵を切った。そう、あのヒトラーも、国を守るための政治を目指したのである。だからナチス党大会で、何度も「平和のために」という言葉を使っている。
日本は、太平洋戦争以降70年間、一度も戦争をしていない。言うまでもなく、日本国憲法のおかげである。そんな日本を「スパイ天国」とか「腰抜け」と呼ぶ者もある。しかし、腰抜けの国だからこそ、今までテロなどの標的にならずに済んだと考えることもできる。
強いが安心して住めない国と、腰抜けだが安心して住める国のどちらが「いい国」だろう。このまま「腰抜け」の国ではいけないのだろうか。そんな日本の敵はどこにいるのだろうか。「良い戦争」や「悪い平和」なんてあるのだろうか。
確かに、今の若者どもはロクなことをしない。しかし、昔の若者もロクなことをしなかったのではないか? ロクなことをする者も、ロクなことをしない者も、大人も子どもも、男も女も、富める者も貧しい者も、健常者も障害者も、みんなが安心して(少なくとも、不安なく)住める国でいいじゃないか。
それとも、積極的平和主義とやらを目指さなければならない、私たちが知らない理由があるのだろうか。
平和主義、という言葉を信じてはならない。