光輝学院イメージ
西東京保谷学習塾光輝学院 スマホ用ヘッダー
西東京保谷学習塾光輝学院 スマホ用メイン

2019年5月21日

バンド紹介

今度の週末(5/26)に、「いこいの森公園」で「アースデイ西東京」というイベントがある。そして、その日の午前10:55から私たちのバンド(The Middle Age)が出演することになっている。

その自己紹介文を依頼されたので、ここでも紹介したい。

 

自己紹介ということは自己を紹介しなければならないのだろう。しかしみなさんは、中年女と中年オヤジの考えていることを知りたいか? 私は知りたくない。また個人情報保護が厳しいこの時代に、中年とはいえ、タダで個人情報を得ようとは不届き至極だ。中年になると、難しいことばかり考えているのだ。今夜は焼酎にするか発泡酒にするか、どうすればタイコ腹をごまかせるか、などだ。

人はよく「本当の自分をわかってほしい」という。しかし、本当に「本当の自分」をわかられてもいいのか? 本当の自分は、わかられては困ることだらけではないだろうか。胸に手を当てて考えてみてほしい。心臓の鼓動が聞こえるだろう。

だから私は高らかに宣言したい。私たちは私たちの道を行くことを。誰にも関心を持たれなくてもいい。愛されなくてもいい。掃いて捨てないでくれるなら。

そしてひとつだけ紹介させてもらおう。私たちは(誰も知らないだろうが)本当はステキな中年だということを。私の勘違いでなければ。

2019年5月20日

主張する者の心がけ

ある日、いつものようにサイクリングを楽しんでいる途中で、信号が赤に変った。当然、私は自転車のスピードを落として止まろうとした。その私の前を年配の女性が歩いていた。その女性にぶつからないように、わきに寄って止まろうとした。ところが、その必要はなかった。女性は、ためらいもせずに、赤信号を無視して道を横断したからだ。

とは言っても、車が通る気配はない道路だから、これはよくある光景だろう。「おや?」と思ったのは、その背中に背負ったリュックに貼られた30㎝四方の布に書かれた文字を見たからだ。

「憲法9条を変えてはいけません」

「人を殺すのはやめよう」

こういった言葉が手書きで書かれていた。

確かに、誰にでも主張する権利はあるし、正しいことは誰が言っても正しい。

しかし主張をするなら、その方面においては、清潔であるべきではないか? 強盗犯が「泥棒はいけない」と言っても、泥棒がいけないということは正しい。だからといって、強盗犯が言うことに耳を貸すか?毛虫やムカデに殺虫剤を振りまきながら「生き物すべてに命がある」と主張する声を聴くか?

憲法を守ろう、刑法を守ろう。そう言うなら、せめて信号くらい守ってほしいと思う。

「だらしない生活を送るな」「本を読め」と主張する「だらしない」あるいは「本をまともに読まない」教師の声を、生徒が聴くことはない。

2019年5月 3日

憲法記念日に思う

私は、この塾を立ち上げる前には、司法試験の受験指導校に勤務していた。

その学校(塾)の塾長は、いわゆる護憲派で、塾内に日本国憲法を研究する機関をも設立していた。

そしてまた私は、大学の法学部の出身で、憲法の教授(のちに学長となる)に師事していた。

そうした経緯で、私は日本国憲法には少なからず関心がある。少なくとも、改憲論(または護憲論)については大きな興味を持っている。

今ここでは、私がどの程度の改憲派なのか、あるいは護憲派なのかは述べないことにする。

がしかし、今日の憲法記念日を機会に、あるいはこの駄文をお読みいただいていることを機会に、日本国憲法について考えてみることも無駄ではないと思う。

例えば、今話題の航空機F35の値段は、1機あたり約150億円だという。これを100機買うとしたら、この飛行機の購入だけにかかる費用は...。で、その費用はどうやって賄うのか?また税金が上がって、それだけでなく、新しい税金を課されるかもしれない。

また、こうして武器・兵器を増強して、誰と闘うのだろう。敵はどこにいるのか。政治家からは、やたら不安をあおるコメントが出される。しかし私には、国民の不安をあおることで彼らが何か得することがあるように思えて仕方がない。

何十年も日本を平和な国家として維持し続けた現在の日本国憲法は、そんなに悪なのだろうか。

2019年5月 1日

平成大晦日

予想通り、平成最後の日と令和初日をまたぐ時間に、大勢の若者が渋谷に集まった。

改元だからといって踊ったり、変な化粧をしたり、大酒を飲むことにどんな意味があるのか理解に苦しむ。でも、まぁそれは個人の嗜好だから、私がとやかく言うことでもない。

ところが早朝のニュースを見て、かなりガッカリした。

そのニュースの天気予報のコーナーでは、渋谷のスクランブル交差点が映し出される。映し出された交差点がゴミだらけだったのだ。

平成天皇への感謝と令和への改元と新天皇の即位を寿ぐかたちはさまざまだろう。大騒ぎをしようが何をしようが、本人の責任の範囲内でやるなら、それはいい。

しかし、お祝いのあと「ゴミだらけのままで知らん顔」でいいのか? いや、そもそも、ちらかし放題のお祝いは、お祝いか?

改元とそれに伴う新天皇の即位は、アメリカやイギリス、フランスなど、多くの国で好意的に報道されている。それは、平成天皇が「日本国民の象徴」として、称えられるにふさわしいということだろう。

では、象徴している国民とはどんな国民なのか。私たちの国の天皇は、自国の象徴たる天皇の即位を祝ったあとかたづけもできない国民を象徴しているのか。あるいは、自分が住んでいる街でも他人が住んでいる街でも、その街を汚したまま(大騒ぎとは無関係な人に掃除をさせて)でも平気でいられる国民を象徴しているのか。

サッカーのワールドカップでも、ハロウィンでも大晦日でも、自分が何を祝っているのかをよく考えたいものだ。