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2020年5月 1日

9月新年度開始案に思うこと

9月の新年度開始が検討されている。これには、多くの地方自治体の首長や教育評論家も賛成しているという。

理由は、主なもので、2つある。

1.これまでも言われてきたように、「諸外国(これ、政治家の便利な言葉)では、9月の新年度開始があたりまえだ」

2.コロナウイルス蔓延によって、生徒・児童が教育機会を失われている。これを、9月の新年度開始によって仕切り直ししよう。

  でもね、もう少し考えましょうよと言いたい。

  まず1つ目。外国がそうしているからといって、なぜ日本が同じ制度を取らなければならないのだろうか。日本が海外と学年の開始時期が違うと、留学する者に対して、さまざまな問題が生じるという。しかし、これまで留学してきた何万人という学生さんが、教育制度の一部を根本から大きく変えなければならないほど多大な不利益を被ったのだろうか。

  2つ目。今後も大きな災害の発生や感染症の大流行が起きるだろう。その度に年度の開始月を変えるのか。しかも学校や自治体によって休校期間がさまざまなため、学習進度を無視して9月にリセットするというのか。

これでは、教育の放棄だ。教師たちの腕の見せ所を奪う行為だ。あるいは、教師たちの怠慢だ。留学するときに学習進度の違いによる不都合があるなら、留学前にしっかりと調整しておけばいいではないか。予定された期間内に予定された授業内容を行えない場合が生じたら、教師の工夫と努力で、予定通りの範囲を過不足なく終らせればいいではないか。生徒に努力を説くなら、言葉だけではなく、まず自分が努力して見せてほしい。

  教育(制度)を語るとき、その根拠は教育的効果を離れてはならないし、その効果や利益は間違いなく生徒たちが得るべきだ。外国がどうの、ウイルスがどうのという、教育とは全く関係ない理由で教育制度を変えようというのは笑止である。

  私は9月の新年度開始に反対しているのではない。それ自体には、賛成でも反対でもない。反対する理由は、どうも「うさん臭さ」がプンプンするからだ。教育は純粋でなければならない。青臭くなければならない。合理性を要求してはならない。理想論でなければならない。私は、そう思う。