コロナ禍に思うこと
今度のコロナウイルス蔓延(コロナ禍)によって、政治のリーダーたちの「利己主義」が見えたように思う。
まずは国の方針について。
まず挙げられるのが、緊急事態宣言の発出(よくわからない言葉だ。ここは「発令」だろうに)時期が、安倍首相が好きな「専門家」の意見よりも大きく遅れたことだ。中国やヨーロッパなどをみれば、感染者が発生した時点で大流行を予想することは容易なことだ。ところが、この宣言は(宣言によって国民の私権が制限されるだろうと)一般には否定的にとらえられていたから、首相は大きく出し遅れた。間違いなく、内閣の支持率低下を心配したものだ。
その後はもう、何をしても(あるいは、何もしなくても)裏目に出てしまう。アベノマスク配布(未だに受け取っていない人もいる)しかり、持続化給付金に関するさまざまな騒動、そして緊急事態宣言の解除時期の早さである。
これは、東京都の小池知事も同様だ。わけのわからないカタカナ言葉で茶を濁し、役に立たない「東京アラート」の宣言と解除、ステップなんとか。
そして打つ手がなくなった今度は「自粛から自衛へ」だ。結局、自分のことは自分でなんとかしろということだ。
これらの政治判断はどれも成功しなかった理由は、「国民を守るため」ではなく「選挙に勝つため」に行ったことだからだ。根拠や目的が的外れだから、効果も的外れになるのは当たり前だ。なぜあのタイミングで宣言なのか、なぜ給付金がこんなに遅れるのか、なぜマスクに多大な経費がかかるのか、そもそもなぜマスクなのか、なぜあのタイミングで東京都の自粛要請は解除されるのか。
私たちは、なぜ税金を払っているのか。日本に住んでいるだけで(何もしなくても)、その自治体に住んでいるだけで「住民税」やら「都民税」やら徴収される。それは、国や自治体が私たちに、生きるに必要なサービスを施してくれるからではないのか。それなのに、コロナ禍は始まってたった2か月程度で、なぜこんなにも多くの家庭が困窮するのか。なぜこんなにも多くの企業や店舗が閉鎖の憂き目にあわなければならないのか。
そしてオリンピックだ。「完全な形での開催」と言うが、国民には「新しい生活様式」(これも「自粛」を言い換えただけのものだ)を強制しておいて、オリンピックはこれまでと変らない形で実施しようというのか。そうまでして実施しなければならないオリンピックとは何なのか。
私の拙い文章ではうまく表現できていないのが残念だ。愚痴ではない。ほかに取るべき方法があるにもかかわらず、政治は一体なにをしているのかとの憤りがやまない。国民一人ひとりは精一杯がんばっている。もちろん、エチケットやマナーを守らない人も少なくない。しかしそれは、どの時代もどの世界にも必ずいる。そんな少数を例に挙げて「自粛が足りない」などと言ってはならない。
選挙目的の政策を実施するなら、「国民主権」とは何なのかを、私たち国民は政治家に対して、つきつけるべきである。