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2016年6月21日

舛添さんが都知事を辞めた。彼は(政治資金等の使い方が、倫理的に間違っていることは議論を待たないが)一連の騒動が起きたときの初期対応を間違ってしまったと思う。自分の行為を正当化しようとするあまり、一切の行動に政治的な理由付けをしてしまった。
私は自営業者である。従って、確定申告は自分で行う。では、経費を1円たりとも私用で使っていないか。そんなことはありえない。例えば「新聞図書費」の新聞代は、半分を経費として計上しているが、実際には、教育に関する情報が新聞の内容の半分以下であることが多い。しかし、「だいたいこんなところ」という妥協点のようなものがある。合理的な金額と言ってもいい。たとえ私用の部分があったとしても、その合理的な範囲で収めていれば、問題は生じない。もちろん、自分では「許される範囲」だと思っても、「認められない」と指摘されれば経費に計上しないことは言うまでもない。会計士にも税務署にも、私は反論せずに指導に従う。
私が塾講師で、舛添さんは都知事だ。地位も収入も、大きな差がある。しかし、他から「先生」と呼ばれる職業に変わりはない。
先生と呼ばれる者は、自分の利益を考えたり、自分を守ろうとしてはいけない。「先生」の仕事(役割)は、自分以外の人の利益を考えたり、自分以外の人を守らなければならないからだ。自分の利益が他人の不利益につながったり、自分を守ることが他人を傷つけることは、絶対にしてはならない。
だから、「これはおかしい」という指摘があったら、まずは「自分が間違ってるのではないか?」と考えるべきである。そう、「謙虚になる」と言ってもいい(私は「私は謙虚だ」と自信を持って言える謙虚さがある。ここは笑うところです。)。
「自分は間違っているのではないか」と思うことは「自信のなさ」ではない。自分が間違う可能性を考えることであり、最悪の状態に備えることである。

何もしないときに、何かあったときの「きれいごと」は、いくらでも言える。舛添さんは、その点でも失敗している。評論家として、数々の政治家の活動を批判し、「こうすればいい」という意見を述べてきたし、著書もある。しかし、彼が実際の政治化になったら、やはり同じ失敗をしている。それは、評論家時代に述べてきたことが、彼の「哲学」に基づいていないからではなかろうか。「先生」と呼ばれる者は「哲学」を持たなければならない。自分の発言や行為が常にその「哲学」に基づいているなら、「きれいごと」も「ブレ」もないはずである。
古代の哲学者の言葉や論語の一節など、何かに書かれていることばかりをしゃべっても説得力はない。またそれは自分の哲学がないことを裏付けているに等しい。自分の考えを自分の言葉でしゃべってこそ人は耳を傾けてくれるし、行動にも矛盾が生じない。

自分を守ろうと発する言葉は、自分を守らず、むしろ自分を貶めることになると私は思う。

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