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2016年12月27日

世界的にみて(正確にはOECD加盟国)、日本人の文章読解力は落ちているという。それはいい、というより、そういうこともあるだろう。問題は、「だから、読解問題に取り組もう」という姿勢である。あまりに安易であると言わざるを得ない。
塾でも「英語の長文問題を解くのに時間がかかる」という意見が毎年、塾生の多数を占める。では、長文問題を解く時間を増やしたり、多くの長文を読めばいいのか。そうではない。英語の長文を速く読んで、それから問題を速く解く、ということがそんなに簡単にできるとは思えない。長文を読み取るのに時間がかかることは当たり前である。日本文(国語の授業などで取り上げられている文など)でさえ、読むのに時間がかかるのである。ではテスト時間内に解き終えるにはどうすればいいのか。それは、文法問題や単語・熟語問題を手早く片付けることである。そのぶんだけ、長文にかける時間が長くなる。従って、英文読解を学習する前に、文法と単語・熟語をしっかりと習得しておかなければならないのだ。
では、母国語である国語の読解能力は、どうすれば身につくのか。日本語の語彙を増やし、言葉による表現方法を身につければいいのだ。
マズいものを食べても、おいしいものを食べても「ヤバい」、感想を訊けば「微妙」、しゃべる前には必ず「なんかぁ」、では語彙が増えることは期待できない。そして、大人が話す言葉に横文字言葉がちりばめられていれば、それを聴く若者たちの日本語が正しく身につくはずがない。
「アンシャンレジームにより、日本のレガシーをビルドできない」「ネガティブシンキングをオミットし、プレイヤーズファーストでいく」って、何だ?
「政治家たちによる保守的な旧体制があるから、これから日本の歴史的遺産となるであろう文化や建造物を創っていくことができない」「否定的・悲観的な考え方は除外して、選手第一主義の精神で進む」では、なぜいけないのか。
子供たちは、正しい日本語と正しい表現を身につけなければならない。そう、そのためには、まずは大人が手本とならなければならない。大人が「チョーすげぇ」「やんねんじゃない?(平坦な言い方で)」なんて言うようでは、チョーヤバいのである。
文化や慣習でも同様だと思う。ファミリーレストランで、帽子を取らずに食事する父親。歩きながらおにぎりを頬張る学生。電車内で化粧をする女性。これらは「悪いこと」ではない。しかし、「みっともないこと」である。「みっともないことの何がいけないの?」 そう、そういう質問をすること自体が、すでにみっともないことであることに気づいていない。悪いことでなければ何をしてもいい、他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい、という考え方もあるだろう。本当にそうだろうか。この場合の「迷惑」とは、他人の物を壊すとか、他人の物を盗む、といった、「具体的な損害」を指すのではないか。すると、「不快に思う」という感情は、「具体的な損害」ではないから、「迷惑」のうちに入らなくなる。
「みっともない」という感情は、日本人にとって、非常に大切なものであると思う。以前もこの欄に書いたことがあるが、日本人が宗教教育なしで社会の秩序を守っていられるのは、この「みっともない」という概念があったからではないだとうか。自己主張しすぎることはみっともないから、一歩譲った考え方や行動をする。ポイ捨てはみっともないから、ごみはゴミ箱に捨てる。歩きながら飲食をすることはみっともないから、座って食べる。
最初に戻る。日本人でありながら、正しい(とされる)日本語を使えない。日本人でありながら、外来語(や外国語)を多用して、本旨をあいまいにする。これはみっともなくないのだろうか。
この塾は、ただ単に「受験のための勉強」を指導しているのではない。自分の将来を考えるために勉強するのであり、将来の選択肢を広げるために勉強するのだ。残念ながら、西東京市だけでなく、より広い範囲を見渡しても、「考えるための学習」を本気で具体的に指導している塾が多いとは思わない。言葉も言動も慣習も、他人から見ても自分を顧みても「みっともない」生き方をしないためにも勉強しなければならない。

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