人は「単なる数」か?
新型コロナウイルスが流行し始めて、もう10か月が経とうとしている。それでもまだ、今後も当分は収まる様子はない。
毎日、都知事が都内での患者発生数を発表しているが、その中で使われる言葉で気になることがある。それは、その日に感染が確認された人数を「本日の感染者数は~でした。」ではなく「本日の数字は~でした。」、「この人数については・・・。」ではなく「この数字について・・・。」と発表していることである。行政にかかわる方々にとって、都民は「人数」ではなく、単なる「数字」らしい。
例えば「50人の感染者が確認されました。」ということであれば、50人がそれぞれ感染したということであり、50人それぞれの事情があり、50人それぞれの仕事や生活や人間関係などに大きな影響があるということである。単なる「50という数字」ならば、50という塊あるいは単体でしかない。「1という数字」はひとつで、「100という数字」もひとつである。そこには、感染したことによる、ひとりひとりの痛みや悩みや苦しみがあることがうかがえない。ただの「数字」だからだろう。
多少の違いはあるものの、このような表現は、私たち塾業界でも使われることがある。
当塾は、毎年の高校ごとの合格者人数を発表を行っていない。それを秘密にしたいからではなく、合格した人を「単なる数字」として捉えてほしくないからである。ある高校に「10人が合格しました」といったときには、10人それぞれの受験生活があったことが読者に伝わりにくい。一人ひとりの受験事情に思いが至らずに、読者が塾選びをするときに「10人合格」よりも「20人合格」という数字のみで判断することは危険だと思う。
一般的には、偏差値65の高校に入学した者は、偏差値40の高校に合格した者よりも称えられるだろう。しかし、偏差値が高かろうが低かろうが、誰もがその高校に入学したいがために一生懸命に努力したことは事実だ。例えば偏差値60を65に上げる努力が、偏差値40を45に上げる努力よりも常に尊いとは言えない。
また第一志望校に不合格だった生徒にとっては、ほかの生徒が合格しようが不合格であろうが、何の関係もない。それは、第一志望校に合格した生徒にとっても同様だ。要するに、一人ひとりに思いを至らせなければならないということだ。
その考えは、通常の授業でも変わらない。
私は、12人の教室で授業を行う場合、「私1人:生徒12人」で授業を行っているつもりはない。「私1人:生徒1人」が12組あると考えている。
感染者だろうが塾生だろうが、「集団は個人の集まり」だということを忘れてはいけない。
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