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2021年6月15日

ある日の朝刊に、ある市長の発言が掲載されていた。

「無観客でもなんでも、必ずやるべきだと思う」

「厳しい状況なのはよくわかるが、選手の立場になったら4年に1度の五輪への思いは強い。なんとしても試合はやるべきです」

「なんとしても」ということは、「たとえ何が起ころうとも」ということだろうか。「たとえコロナ禍が今以上に深刻になったとしても」ということだろうか。ご自身がお住いの市民がコロナで犠牲になったとしても、とでも言うのだろうか。

この言葉を、この度のコロナ禍で亡くなった方々のご遺族の前でも、やはり言えるのだろうか。不思議でならない。

私としては、こう言ってほしいと思う。

「無課税でも支援金支給でも何でも、市民に対して、必ずやるべきだと思う」

「厳しい状況なのはよくわかるが、市民の命を守るというなら、(参加選手の)4年に1度の思いが強くても、何としてでも(五輪は)中止するべきです」

私は、五輪が悪いイベントだと言うのではない。五輪を実施するにあたっての環境が整っていない状況での実施を反対だと言っている。

「安全・安心な五輪」と言うが、具体的な安全対策を提示していない。どころか、役にも立たないマスク配布を始め、見当はずれな「対策」で、しかも大きく時期を逸している。さらに言わせてもらえば、政府や自治体が行う対策は「国民に我慢を強いる」こと以外、何をしてくれているのか。

やはり、自分の身は自分で守るしかないのか。

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